砕かれた神速
「あら、避けるのは上手なのね。でも、いつまでもつかしら?」
滝夜叉姫がパチンと扇子を閉じ、その先端をピタリと二人へ向ける。
その瞬間、彼女の周囲に渦巻いていた赤黒い瘴気が生き物のようにうねりを上げ、無数の鋭い刃となって一直線に豊広と広重に襲いかかった。
「くっ……!」
漆黒のコートを翻し、広重が大鷲の如き鋭い踏み込みで青い光刃を連続で突き出す。
精密機械のような刺突が瘴気の刃を次々と打ち砕くが、滝夜叉姫の妖気は底なしだった。
砕かれた瘴気はすぐにドロドロと癒着して別の形を成し、巨大な蛇となって広重の死角へ噛みついてくる。
「広重、右です」
飄々とした声と共に豊広が横入りして、赤い光刃を軽く薙ぎ払う。
それだけで瘴気の蛇は悲鳴を上げて霧散した。
「すみません、豊広さん」
「いいえぇ。それにしても、鬼姫も随分と激しいおもてなしがお好きなようで」
豊広は胡散臭いほど愛想の良い笑みを浮かべたまま、自身へと迫る妖術の雨を、最小限の動きで軽やかに躱していく。
一見すれば防戦一方だが、豊広の目は微塵も笑っていなかった。
(……なるほど。一見すると変幻自在で出鱈目な妖術に見えますが、発動の過程には明確な法則があるようですね)
豊広の最大の武器は、その驚異的な情報処理能力と分析力だ。
彼は愛想笑いを浮かべて避けながらも、滝夜叉姫の視線、指先の微かな動き、扇子の開閉、そして周囲の瘴気が形を成すまでのコンマ数秒の時間差を、一つ残らず脳内で計算し尽くしていた。
「ふぅ、逃げ回るばかりで退屈だわ。もっと私を楽しませてくれないかしら」
滝夜叉姫がパチンと扇子を開き、優雅に振り下ろす。
今度は瘴気が三体の巨大な髑髏の幻影に変わり、三方向から豊広たちを攪乱するように迫る。
広重がすかさず迎撃の構えをとるが、豊広は片手で彼を制した。
「無駄な体力は使わないことです。あれは幻……本命は、足元ですよ」
「なっ!?」
豊広が自身の足元の影へ向けて赤い光刃を真っ直ぐに突き刺すと同時に、地中から二人を串刺しにしようと伸びてきた無数の黒い棘が、甲高い音を立てて砕け散った。
「……ッ」
滝夜叉姫の妖艶な笑みが、ほんの一瞬だけピクリと引きつる。
「おやおや。お顔が怖くなってますよ、鬼姫」
豊広は赤い光刃を肩に担ぎ、薄く目を細めた。
(見切りましたよ。扇子を閉じた時は直線的な物理攻撃。開いた時は幻術による攪乱と、死角からの奇襲。そして……術を切り替える瞬間、ほんの瞬きほどの時間ですが、自身の守りが手薄になる『絶対の死角』が生まれる)
どんなに強大で理不尽な妖術であろうと、人が操る以上、必ず法則がある。
豊広はその冷徹な分析力によって、ついに滝夜叉姫の鉄壁の妖術に潜む、針の穴のような隙を暴き出していた。
豊広は小さく息を吐き、赤い光刃の柄を握り直す。
死線が交錯する極限の集中状態は、時に過去の記憶を呼び起こす。
豊広の脳裏に蘇ったのは、五年前の赤坂龍穴事変の光景だった。
当時、ウキヨ英士として浮世組に入ったばかりの新人だった豊広は、その惨劇の事後対応を目の当たりにして、深い絶望の淵に立たされていた。
大倭衆の急襲に対し、上層部の判断は遅れに遅れた。
『状況が完全に把握できるまで待機せよ』
『正規の手続きを踏まねば部隊は動かせん』
法や規則、体面に縛られた愚鈍な命令のせいで、前線に出た清長や清信たちは深い傷を負い、赤坂の龍穴は崩壊した。
どれほど緻密に状況を分析し、的確な予測を立てようとも、硬直した巨大な組織の歯車の中では、ただの新人英士の声など誰の耳にも届かなかったのだ。
(法や規則に縛られた『表の道』では、大倭衆の狡猾な牙からこの国は守れない……)
そう痛感し、現状の組織の限界と己の無力さに深い絶望を抱いていた豊広の前に現れたのが、豊春だった。
豊春もまた、同じように組織の限界に血を吐くような怒りを覚えながらも、決して諦めてはいなかった。
彼は自ら将軍に直談判し、帝都政府公認の非合法部隊……つまり、光の当たらない『影の刃』を立ち上げるという、狂気とも言える覚悟を見せたのだ。
『俺と一緒に、泥をすすってでもこの国を守る覚悟はあるか』
豊春のその静かで熱い言葉に、豊広の絶望し冷え切っていた心に火が灯った。
同時に、同期で最も血の気の多い豊国も、迷うことなくその誘いに乗っていた。
こうして豊広は浮世組を辞し、歌川龍人会へと身を投じたのだ。
自分の持つ冷徹な計算能力と非情な判断力は、正義や体面を重んじる表舞台より、目的のためなら手段を選ばない『影』の中でこそ最大限に活きると確信したからである。
(ええ。私は影の刃。だからこそ、どんな小賢しい術も、理不尽な力も……私の計算で必ず暴き、切り裂いてみせる)
豊広の視界が、過去の記憶から再び現実の戦場へと焦点を結ぶ。
目の前には、優雅に扇子を弄び、妖艶に微笑む滝夜叉姫。
そして斜め後ろには、静かな闘気を放ちながら自身の指示を待つ広重がいる。
「……広重」
豊広は、滝夜叉姫から一切の視線を逸らすことなく、短く鋭く声をかけた。
「はい」
「私が合図をしたら、鬼姫へ向けて一直線に突撃してください。……すべては、私の計算通りに」
「……了解しました」
広重は豊広の意図を一切疑うことなく、青い光刃を構えて深く腰を落とした。
豊広は、胡散臭い愛想笑いを綺麗に消し去り、氷のように冷徹な笑みを浮かべる。
(さあ、種明かしの時間ですよ)
「……どうしたの? 防戦一方で、もう息が上がってしまったかしら」
滝夜叉姫が、退屈そうに口元を扇子で隠しながらクスリと笑う。
豊広は額に微かな汗を滲ませながらも、胡散臭い笑みを崩さずに肩をすくめた。
「ええ、あなたの情熱的なおもてなしには、少々骨が折れましてね」
「ふふっ。口の減らない男。……なら、これならどう?」
滝夜叉姫の目が、嗜虐的な色に歪む。
彼女が閉じていた扇子をパチンと開き、優雅に振り上げようとした、まさにその瞬間だった。
豊広の瞳に、鋭い光が宿る。
(ここです……!)
扇子を切り替える際に生じる、コンマ数秒にも満たない『絶対の死角』。
豊広自身が囮となって引き出した、その針の穴のような隙を見逃す彼ではない。
「広重ッ!!」
「はッ!」
豊広の鋭い合図に応え、後方で静かに待機していた広重が弾かれたように地を蹴った。
漆黒のコートが激しく翻り、大鷲が獲物を狩るかのような凄まじい踏み込みで、青い光刃が滝夜叉姫の死角へと一直線に突き出される。
完璧なタイミング。
完璧な軌道。
豊広の冷徹な計算と、広重の精緻な剣技が融合した、文字通り必殺の一撃。
どれほどの妖術使いであろうと、この死角からの神速の刺突は絶対に防げない。
そう確信した。
ガギィィィンッ……!!
だが、空間に響き渡ったのは、肉を裂く音ではなく、硬質な金属が激突するような甲高い音だった。
「……なっ!?」
感情を面に出さない広重が、驚愕に目を見開いた。
必殺のはずだった青い光刃の切っ先は、滝夜叉姫の首筋まであと数寸というところで、ピタリと止まっていた。
滝夜叉姫が、開こうとしていた扇子をそのまま滑らせ、その腹の部分で広重の刃を事も無げに受け止めていたのだ。
「……あら。よく計算された、綺麗な連携攻撃ね」
滝夜叉姫が、扇子越しに広重を見つめ、妖艶に微笑む。
(馬鹿な……!? あのタイミングで防御に回ることは物理的に不可能なはず……!)
豊広の顔から、愛想笑いが完全に消え去った。
「でもね……」
滝夜叉姫の声音が、ふっと一段階低く、底冷えするものに変わる。
「私相手に、小賢しい計算なんて通用すると思っているのかしら?」
ドッ、と。
滝夜叉姫の華奢な体から、これまでとは比べ物にならないほど濃密で、圧倒的な質量を持った赤黒い瘴気が爆発的に膨れ上がった。
「くっ……!?」
その凄まじい妖気の重圧に、鍔迫り合いをしていた広重が木の葉のように後方へと弾き飛ばされる。
「広重!」
豊広が咄嗟に受け止めようとするが、その余波だけで二人揃って数メートルも後退させられた。
「……ハァ、ハァ……」
広重が体勢を立て直すが、その呼吸は乱れ、腕は微かに震えていた。
豊広は、ギリッと奥歯を噛み締める。
滝夜叉姫は、扇子で口元を隠し、先ほどと何一つ変わらない優雅な佇まいで二人を見下ろしていた。
着物の裾一つ乱れていない。
(これが……大倭衆幹部の、底力……)
どれほど緻密な戦術を練り、完璧な連携を決めたとしても、絶対的な力の差の前には無意味。
豊広は自身の最大の武器である計算が根底から覆された事実を前に、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
奴らとの間には、戦術で覆せるレベルではない、絶望的な実力差が存在していたのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月22日(火)19時に更新予定です。




