遠ざかる背中
「——待ってくれ!」
俺の腹の底からの叫びに、引き戸に手をかけていた清信さんがピタリと動きを止めた。
「清信さん! 浮世組からは俺たちが行く!」
俺は一歩前に踏み出し、清信さんを真っ直ぐに見据えた。
隣には、北斎が静かに並び立つ。
「浅草の守りは政信の旦那や清信さんがいれば十分なはずだ」
北斎が淡々とした口調で補足する。
「写楽と俺が江戸城龍穴に行く。この緊急事態に、悩んでいる時間なんてないだろう」
清信さんは、険しい表情のまま俺たちを見回した。
清信さんの頭の中では、浅草を守る戦力と、江戸城へ向かう戦力が、天秤にかけられているんだろう。
俺は強く拳を握りしめた。
「確かに俺は、ウキヨ英士になったばかりで頼りないかもしれねぇ。でも、行かせてくれよ!」
俺の必死の訴えに、清信さんは小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「……頼もしくなったな、写楽」
清信さんの声に、全員の視線が一点に集まる。
「写楽、北斎。浮世組を代表して直ちに江戸城へ急行せよ。先行している豊春たちと合流し、大倭衆の江戸城龍穴占拠を必ず阻止するんだ!」
「「はっ!」」
俺たちは一斉に姿勢を正し、力強く返事をした。
「……決まったようだな!」
国貞がバツが悪そうに頭をガシガシと掻きむしる。
「よし、行くぜ野郎ども! 帝都のド真ん中でデカいツラしてる化け物どもを、一匹残らず叩き出すぞ!」
国芳が拳を高く突き上げ、熱く吠える。
「応!」
待ってろ、大倭衆。
これ以上、お前たちの好きにはさせねえ。
俺たちは弾かれたように事務所を飛び出し、夜の帝都へと駆け出した。
目指すは、江戸城龍穴——。
事務所の入り口がバタンと閉まり、喧騒が夜の闇に吸い込まれていく。
後に残されたのは、急激に冷え込んだ静寂と、取り残された者の焦燥感だけだった。
「……行っちゃった」
奥の部屋から飛び出してきた応為は、その場に立ち尽くし、五人が消えた夜道をぼんやりと見つめていた。
国貞、国芳、広重、北斎、そして写楽。
背中を預け合い、同じ志を持って戦場へ赴く彼らの後ろ姿が、応為の目にはやけに眩しく、そして遠く映った。
彼らは戦う力を持っている。
帝都を守り、大倭衆に立ち向かうための龍輝筆刃と、それを振るうに足る強さを。
(あたしは……また、置いていかれた)
応為は、車引きの仕事で硬くなった自分の掌を、ぎゅっと握りしめた。
兄である北斎や、日進月歩で力をつける写楽たちに比べて、今の自分はあまりにも無力だ。
大倭衆のような化け物が相手の戦場で、車引きしかできない自分ができることなど、何もない。
彼らが命を賭して戦っている間、あたしは浅草の街で、ただ彼らの無事を祈ることしかできないのか。
その事実が、応為の胸を深く、鋭く突き刺す。
(悔しい……。ただただ、悔しいよ)
温厚で心優しい五月と出会い、少しだけ自分を見つめ直せたと思っていた。
だが、事態が急激に動き出し、戦いの火蓋が切られた今、自分の無力さがかつてないほど鮮明に突きつけられる。
応為の瞳に、悔し涙が滲む。
だが、彼女はすぐに袖口で乱暴にそれを拭った。
ただ悲しんでいても、何も変わらない。
あの眩しい背中を、いつか必ず自分も追い越してみせる。
戦う力がないのなら、今はせめて、この鍛え上げた足腰と体力で、いつか力が目覚めたその瞬間に、誰よりも速く駆けつけられる備えをしておくしかない。
「……あたしだって、絶対に強くなる」
応為は引き戸をしっかりと閉めると、誰もいない夜の事務所で、小さな決意を口にした。
いつか必ず、彼らの隣に並び立つために。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月14日(月)19時に更新予定です。




