急報
深夜。
帝都の心臓部たる江戸城は、深い静寂と闇に包まれていた。
等間隔で配置された警護の兵たちが微かな衣擦れの音を響かせる以外、物音ひとつしない。
だが、その平和なまどろみは、唐突に、そして暴力的に破られた。
ジリリリリリリリリリッ……!!
城の奥深くから、空気を切り裂くようなけたたましい非常警報のベルが鳴り響いた。
同時に、物理的な音とは異なる「霊的な地鳴り」が城全体を揺るがす。
常人にはただの微震にしか感じられないその揺れは、龍脈と繋がる者にとっては、脳髄を直接揺さぶられるような強烈な悪寒を伴っていた。
「……っ!!」
江戸城のさらに奥、外界から隔絶された祈りの間で、祭壇に向かって静かに瞑想していた美与が、弾かれたように目を見開いた。
その額には玉の汗が浮かび、白魚のような両手は、祭壇の縁を白くなるほど強く握りしめていた。
「この邪悪な波動……まさか、結界をすり抜けて龍穴の内部に直接……!?」
彼女の脳裏に、大地の底を這うような禍々しい黒い影——無数の惡魂衆が、江戸城の地下深くに封じられた龍穴へと殺到していく光景が鮮明にフラッシュバックした。
(いけない……! 江戸城の龍穴まで落とされれば、この国は……!)
かつて、この帝都には三つの巨大な龍穴が存在した。
江戸城、赤坂、そして浅草である。
龍脈から溢れ出る恩恵は、この国に奇跡的な発展と平和をもたらしてきた。
だが、五年前の赤坂龍穴事変によって、赤坂の龍穴は完全に崩壊。
帝都の霊的なバランスは大きく崩れた。
もし今、最大の龍輝源である江戸城の龍穴までもが失われれば、どうなるか。
龍脈の恩恵は途絶え、平和に発展してきた日本そのものが、文字通り根底から覆り、再び闇の時代へと逆戻りしてしまう。
美与は立ち上がると、一目散に祈りの間を飛び出した。
向かった先は、将軍・輝吉の執務室である。
スッ、と滑らかに、しかし一刻の猶予もない切迫した手つきで襖を開け放つと、そこにはすでに寝間着の上に羽織を引っかけ、厳しい表情で立ち尽くす若き将軍の姿があった。
彼もまた、城全体を包み込み始めたただならぬ不穏な空気から、何らかの異常事態が起きていることを直感していたのだ。
「輝吉様! 事態は一刻を争います。多数の惡魂衆が、江戸城龍穴の内部に侵入しました!」
「……うむ。先ほどから感じるこの得体の知れない胸騒ぎ……そういうことだったか。まさか、外の結界を破らず、内部から直接食い破ってくるとは」
輝吉は、夜の闇に沈む窓の外を睨みつけながら、低く唸った。
「はい。奴ら、通常の手段ではなく、空間そのものを歪めて強引に入り込んだものと推測されます。城の近衛兵たちだけでは、到底防ぎきれません」
「厄介な連中だ。となれば、頼れるのは『彼ら』しかおるまい。すぐに浅草浮世組に、緊急の報せを!」
「はい! 輝吉様も、直ちに安全な場所へお移りください!」
「わかっている。……智雪、康雪!」
輝吉が鋭く短く呼んだ、次の瞬間だった。
執務室の天井の梁から一つ、そして部屋の隅に落ちた深い影の中から一つ。
音もなく、二つの人影が畳の上に降り立った。
漆黒の装束に身を包んだ、将軍直属の隠密である兄弟忍者だ。
「はっ。ここにおります」
落ち着き払った冷徹な声で応えたのは、兄の智雪。
「御意のままに」
その隣で、鋭い双眸をギラリと光らせたのは、弟の康雪である。
二人は片膝をつき、深く頭を垂れたまま、主からの命令を待っている。
「大至急、浅草の浮世組へ走れ。江戸城龍穴が惡魂衆の急襲を受けていると清信に伝えよ」
「承知いたしました」
「一刻の猶予もならん。行け!」
「はっ!」
輝吉の命令が下された瞬間、智雪と康雪の姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように、文字通り夜の闇へと溶けて消え去った。
誰もいなくなった執務室で、美与は胸の前で両手を固く組み合わせた。
「どうか……間に合って」
祈るような美与の呟きは、けたたましく鳴り続ける警報の音に掻き消され、江戸城の冷たい夜の空気の中へと吸い込まれていった。
帝都の命運を懸けた、長くて過酷な夜が始まろうとしていた。
浅草浮世組、事務所の裏庭。
初夏の生ぬるい夜風が吹き抜ける中、俺は木刀を杖代わりにしながら、土の上にドサリと尻餅をついた。
全身から滝のように汗が吹き出し、息はゼエゼエと上がりっぱなしだ。
「っ痛ぇ……」
「……もう限界か、写楽」
俺を見下ろす北斎は、俺と同じように木刀を握り、汗を流しているものの、その立ち姿には微塵のブレもなかった。
「無理だって……。北斎、打ち込みが重すぎる……」
「実戦なら、お前はすでに三度は死んでいる。大倭衆の刃が、手加減してくれるとでも思っているのか」
「それはそうだけど……」
情けなく項垂れる俺の頭に、手拭いがバサリと投げ落とされた。
「……風邪を引く前に中に入れ」
「サンキュー。北斎って、鬼みたいに厳しいけど、意外と面倒見いいよな」
「……無駄口を叩く余裕があるなら、素振りを百本追加するが」
「勘弁してくれ!」
俺たちは軽口を叩き合いながら、裏庭から事務所の中へと戻った。
事務所の中は、天井から吊るされた薄暗い電灯の光に照らされていた。
奥の長机では、清信さんと並んで、広重と国芳が山積みになった書類の整理を手伝っている。
「よお、写楽。今日も北斎に絞られてたのか?」
国芳が、片手で書類を仕分けながら、もう片方の手で膝の上の三毛猫を撫でつつニヤニヤと笑いかけてきた。
「絞られてたって言うな。……ていうか、お前ら龍人会に戻らなくていいのかよ。もうずいぶん遅えぞ」
俺が首に巻いた手拭いで汗を拭いながら聞くと、隣で黙々と書類を束ねていた広重が、生真面目な顔で顔を上げた。
「清信さんの書類整理を手伝っていたんだ。それに、豊広さんが『今夜は少し外す』と言っていたから、戻るのが遅くなっても構わないと思ってな」
「へえ。あのクールな豊広さんがねぇ」
「……お前ら、おしゃべりしてる暇があったら、残りの束を向こうの棚に片付けてくれ」
清信さんが、筆を止めることなく、低い声でピシャリと言った。
「あ、はい! すんません!」
俺と国芳が慌てて背筋を伸ばした、まさにその瞬間だった。
——ヒュッ。
風が鳴ったような、微かな音。
いや、音すらしなかったかもしれない。
ただ、俺たちの目の前の空間が、一瞬歪んだように感じた。
「……ッ!」
最初に反応したのは北斎と清信さんだった。
北斎は手にしていた手拭いを投げ捨てて瞬時に木刀を構え、清信さんは机の上の筆を置き、いつでも動けるようスッと腰を浮かせた。
国芳も膝の上の猫を逃がし、広重と共に臨戦態勢に入る。
「……何者だ」
北斎が静かに、だが鋭く問い詰める。
事務所の中央。
さっきまで誰もいなかった空間に、二つの黒い影が、まるで最初からそこに立っていたかのように現れた。
漆黒の装束に身を包んだ、二人の男。
顔の半分を布で覆い、わずかに覗く鋭い眼光だけが、周囲の空気をジリジリと焦がしている。
「……曲者か?」
俺も木刀を握り直す。
だが、二人の男に殺気はなかった。
彼らは俺たちの警戒を意に介する様子もなく、揃って片膝をつき、清信さんに向かって深く頭を下げた。
「我らは将軍・輝吉様より遣わされし隠密。兄の智雪と」
「弟の康雪と申します」
「隠密……?」
俺は思わず声を漏らした。
将軍直属の忍者ってことか?
なんでそんな連中が、こんな夜更けに浅草の浮世組なんかに?
清信さんが、警戒を解かずにゆっくりと立ち上がった。
「……将軍家直属の隠密が、こんな夜更けに何用だ。よほどの急ぎと見えるが」
智雪と名乗った兄の方が、顔を上げ、押し殺したような、しかしはっきりと焦燥を帯びた声で告げた。
「急報です。——江戸城龍穴の内部に、多数の惡魂衆が侵入いたしました」
「……なんだと?」
北斎が微かに眉をひそめる。
俺も、自分の耳を疑った。
江戸城!?
この国の中心で、一番警備が厳重なはずの場所に、惡魂衆が入り込んだっていうのか!?
「結界を破るのではなく、空間を歪めて内部から直接食い破ってきた模様。現在、城内は極めて危険な状態にあります。将軍・輝吉様より、浅草浮世組は直ちに江戸城へ急行せよとの命令です」
弟の康雪が、事態の深刻さを補足する。
「江戸城が襲撃された……。大倭衆の奴ら、ついに本丸を狙い撃ちにしてきやがったか」
国芳が、ギリッと奥歯を鳴らした。
清信さんは目を細め、静かに闘気を孕んだ声で言った。
「……事態は理解した。だが、奴らの戦力は?」
「相当な数です。一刻を争います」
智雪が言葉を区切り、俺たち一同に緊張が走った、まさにその時。
バンッ!!
事務所の入り口の引き戸が、乱暴に開け放たれた。
皆が一斉にそちらへ視線を向ける。
そこに立っていたのは、息を切らし、鋭い眼光を放つ龍人会のウキヨ英士だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月11日(金)19時に更新予定です。




