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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ
第十章 兄妹

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蠢く暗影

挿絵(By みてみん)

 その夜。

 すっかり日の落ちた浅草の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 五月との会話で心のつかえが取れた応為は、どこか晴れやかな足取りで浮世組の事務所へと戻ってきた。

 だが、事務所の入り口の引き戸に手をかけた瞬間、応為はふふと動きを止めた。

 中から、低く押し殺したような話し声が漏れ聞こえてきたのだ。

 一つは、清信の落ち着いた声。

 そしてもう一つは、聞き慣れないが、どこか理知的で淡々とした男の声だった。

(……誰だろう? 兄貴でも、政信の旦那でもないし……)

 ただならぬ気配を感じ取った応為は、無意識に息を潜め、少しだけ開いた引き戸の隙間から漏れる微かな光に顔を近づけ、耳をそばだてた。

「……ですので、万が一の事態に備え、『アレ』は江戸城よりも、むしろこの浅草龍穴の最奥に……と、美与殿に進言していただけないでしょうか」

(江戸城……? アレって、何のこと……?)

 男の口から飛び出した「江戸城」という途方もない単語と、「美与」という名前に、応為は思わず息を呑み、心臓がドクリと跳ねた。

(美与って……前に浅草で会った、あの高飛車なお嬢様のことだよね? ……どういうこと?)

「……ふむ」

 清信の、短くも深い相槌が聞こえた。

「大倭衆の狙いが、龍穴の最奥に隠された『力』であるなら、確かに理にかなっている。豊広、お前の慧眼、さすがだな」

(豊広……!? って、政信の旦那たちが話してた、あの龍人会の……?)

 応為は思わず目を見開いた。

 独立組織として浮世組と距離を置いているはずの歌川龍人会。

 そのウキヨ英士である豊広が、なぜ清信とこんな夜更けに密談を交わしているのか。

「政信にも話を通しておこう。美与殿への根回しは、私に任せておけ」

「……恩に着ます、清信殿。では、私はこれで」

 衣擦れの音が響き、足音が入り口の方へ向かってくる気配がした。密談が終わったのだ。

(……いけない、聞かれたのがバレたら……!)

 そう直感した応為は、慌てて引き戸から身を離し、足音を殺して踵を返そうとした。

 片足を浮かせた、まさにその時だった。

 ガラッ、と。

 目の前の引き戸が、中から勢いよく開け放たれた。

「ひゃっ!?」

 不意を突かれた応為は、思わず間抜けな声を上げてその場に固まってしまった。

 開いた戸口の向こうに立っていたのは、腕を組み、冷ややかにこちらを見下ろす清信だった。

 その双眸は、扉の向こうに誰がいるのか、最初からすべてお見通しだったと言わんばかりの静けさを湛えている。

「応為。盗み聞きとは、感心せんな」

 静かで低い声。

 その響きに、応為は顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。

「あ、いや、これは、その……! 決して怪しい者じゃなくてですね、たまたま通りかかったというか……!」

 必死に言い訳をひねり出そうとする応為。

 その清信の後ろから、一人の男が静かに進み出てきた。

 先ほど漏れ聞こえた声の主、歌川龍人会の豊広だ。

 彼もまた、戸口で慌てふためく応為の姿に驚く様子はなく、理知的な瞳でじっと彼女を見つめた。

「……では、清信殿。よしなに」

「ああ。気をつけてな」

 豊広は清信に向けて静かに一礼すると、応為の横を通り過ぎていく。

 すれ違いざま、彼は応為に向かって、値踏みするような、それでいて何かを見透かすような、意味ありげな一瞥をくれた。

(なんなの……今の目……)

 三社祭の折に遠目で見かけただけの男だったが、直接向けられたその静かな眼差しに、応為は思わず息を呑んだ。

 豊広の足音は、夜の浅草の暗がりへと吸い込まれ、やがて完全に消え去った。

 事務所の入り口には、居心地の悪そうに立ち尽くす応為と、静かに彼女を見据える清信だけが残された。

「……立ち聞きした内容、他の者に漏らすなよ。もちろん、お前の兄にもだ」

「わ、分かってますってば……!」

 清信の鋭い念押しに、応為は唇を尖らせながらも力強く頷いた。

 江戸城、龍穴の最奥、美与。

 自分が聞いてしまった単語の重さに、応為の胸の鼓動はまだ落ち着きを取り戻せないままでいた。

 この帝都の裏側で、自分には計り知れない途方もない何かが動き出そうとしている。

 一介の車夫に過ぎない応為の日常のすぐ隣で、その暗い影が確実に蠢き始めていることだけは確かだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は9月9日(水)19時に更新予定です。

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