妹たちの時間
翌日の昼下がり。
初夏を思わせる強い日差しの中、応為は浅草の裏通りで車引きの休憩を取っていた。
首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭い、ふうっと小さく息を吐き出す。
路肩に人力車を止め、涼しい木陰の芝生に腰を下ろすと、応為はじっと自分の両手を見つめた。
車引きの仕事でマメができ、少し硬くなった手のひら。
だが、大倭衆のような化け物たちと戦う力は、まだこの手には宿っていない。
(……あたし、このままでいいのかな)
思い出すのは、先日の旧赤坂龍穴での出来事だ。
兄の北斎、清長さん、写楽。
彼らは命を懸けて戦い、傷だらけになって帰ってきた。
特に写楽は、あたしより後から入ってきたというのに、死線を越えるたびにどんどんウキヨ英士としての顔つきが頼もしくなっている。
それに引き換え、自分はどうだ。
兄貴があたしを危険な目に遭わせまいと車引きの仕事しかさせず、あたしにウキヨ英士になるのを諦めさせようとしているのは、なんとなく感じている。その不器用な愛情も。
でも、ただ安全な場所で守られているだけのそんな現状に、どうしても歯痒さを感じてしまう。
『大丈夫だよ、五月さん! 何かあったら、あたしたち浮世組が絶対力になるから!』
先日、浅草寺の裏手で五月にかけた自分の言葉が、不意に重くのしかかる。
あんなに堂々と言い切っておきながら、いざという時、今のあたしには何ができる?
また兄貴の背中に隠れて、震えていることしかできないんじゃないか。
「……もう。焦っちゃダメだって分かってるのに」
応為は誰にともなくこぼし、自分の膝を軽く叩いた。
ずっと兄貴に守られるだけの自分は、もう終わりにしたい。
持ち前の正義感だけで突っ走っていた昔とは違う。
本当のウキヨ英士になって、あたしもみんなの背中を守れるくらい強くなりたい。
そして、あの優しく健気な五月さんのような人たちを、この手で守れるようになりたい。
その強烈な焦燥感が、応為の胸の内をジリジリと焦がしていく。
「よし……ウジウジ悩んでても始まらないしね!」
応為は両手でパンッと自分の両頬を軽く叩き、気合を入れた。
今はとにかく、車引きの仕事で足腰を鍛えて基礎体力をつけるしかない。
いつか力が目覚めたその瞬間に、誰よりも早く最前線へ駆けつけられるように。
「よしっ。お客さん探して、もうひとっ走り行ってこよう!」
梶棒をしっかりと握り直し、応為は再び浅草の喧騒の中へと駆け出していった。
その背中は、見習いから一人前のウキヨ英士へと羽ばたこうとする、不器用ながらも真っ直ぐな決意を帯びていた。
気合を入れ直し、応為が再び浅草の喧騒へと駆け出そうとした、まさにその時だった。
「応為さん……? そんなに思い詰めたお顔をして、どうかなさいましたの?」
ふいに背後からかけられた涼やかな声に振り返ると、そこには五月が立っていた。
買い物帰りなのか、腕に小さな風呂敷包みを抱えている。
彼女は小首を傾げ、いかにも偶然通りかかったというような、心配そうな眼差しを応為に向けていた。
「五月さん……。あ、ううん、なんでもないよ! ちょっと気合を入れてただけで……」
応為は慌てていつもの明るい笑顔を作り、首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭った。
だが、五月は応為の無理に作った笑顔を見ると、ふっと悲しげに目を伏せた。
ゆっくりと歩み寄ると、五月は応為の少し泥のついた手を、自らの白く滑らかな両手でそっと包み込んだ。
「……お兄様のお力になりたいのに、何もできないのが……とても、もどかしいのですね」
「え……」
図星を突かれた応為は、思わず息を呑んだ。
以前、五月に「兄貴から目が離せない」と愚痴をこぼしたことはあったが、まさか自分の心の奥底にある「歯痒さ」まで正確に見抜かれるとは思っていなかった。
戸惑う応為に対し、五月は傷ついた小鳥を労わるような、慈愛に満ちた声で言葉を紡ぐ。
「お兄様を支えたいという応為さんの真っ直ぐなお気持ち、私には痛いほどわかりますわ。……私が諦めずに兄の足取りを追って、こうして応為さんたちに巡り会えたように。その強い想いは、きっと応為さんの願いを叶える力になるはずです」
「願いを、叶える力……?」
応為の呟きに、五月は静かに、深く頷いた。
その温かい声は、まるで乾いた土に水が染み込むように、応為の焦りと不安で空いた心の隙間へと浸透していく。
「ええ。だから焦らずに、前を向いていきましょう」
ふわりと微笑む五月。その純粋な優しさに触れ、応為の目からふっと強張りが抜け落ちる。
彼女は五月の手にすがりつくように、ただ無言で小さく頷くことしかできなかった。
太陽が雲に隠れ、二人が立つ木陰の影がふっと濃くなる。
応為の心の奥底にあった孤独な焦燥感が、五月の温もりによってそっと解きほぐされていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月8日(火)19時に更新予定です。




