浅魂の夜
その夜。
浅草の裏路地にひっそりと佇む酒場・浅魂は、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
薄暗い店内のカウンター席で、政信は一人、静かに杯を傾けている。
しかし、その顔には、いつもの昼行灯のような飄々とした表情はない。
大倭衆の本格的な動き、そして赤坂で奪われた黒の勾玉。
事態が急激に動き出していることを、彼の鋭い眼光が物語っていた。
「……政信の旦那」
不意に、背後から低く静かな声がかけられた。
店の扉が開いた音など、一切しなかった。
政信は振り返ることもなく、手元の杯を見つめたまま
「……なんだ、豊春。神妙な面しやがって」
と、短く応じた。
「少し、話がある」
政信の背後に音もなく立っていたのは、歌川龍人会を束ねる頭領・豊春と、若頭である豊国だった。
二人の纏う空気は、夜の冷気よりも冷たく、張り詰めている。
豊春は、カウンターに肘をつく政信の横顔を見下ろしながら、感情の読めない声で告げた。
「赤坂の件……俺たちは俺たちで動かせてもらう」
「……」
「帝都政府のやり方じゃ、あの時……五年前の赤坂龍穴事変のように、また後手に回るだけだ。俺たちは、同じ轍は踏まねえ」
豊春の揺るぎない覚悟を秘めた言葉に、政信は何も答えない。
ただ、静かに酒を呷るだけだ。
その政信の態度に苛立ったように、隣に立つ豊国が一歩前に出る。
「旦那! 俺たちは本気だぜ! 腑抜けた政府の指図なんか待ってられねえ! 俺たちのシマは、俺たちの手で守るんだよ!」
豊国はギリッと奥歯を鳴らした。
血の気の多い彼にとって、後手に回る政府の対応はもどかしさでしかない。
自らの拳で仲間を守り、敵を叩き潰す。
それが彼の、そして龍人会の信条なのだ。
政信はゆっくりと杯を置くと、ふうっと短く息を吐き出した。
「……好きにしろ」
政信は、依然として振り返らないまま、短く言った。
「だが、危ねぇ真似だけはするんじゃねえぞ」
「……へっ、ガキじゃあるめえし」
鼻を鳴らして応えたのは豊国だった。
豊春はそれ以上言葉を交わすことなく、静かにきびすを返す。
豊国もまた、鋭い視線を一度政信に向けた後、頭領の背中を追う。
二人の姿が、音もなく夜の闇へと溶けていく。
残された政信は、再び杯を手に取った。
政府直轄の浮世組と、独立部隊である龍人会。
やり方は違えど、帝都を守るという想いは同じ。
「……若えのには、かなわねえな」
政信の呟きは、誰に聞かれることもなく、静寂の店内に吸い込まれていった。
その日の仕事終わり。
ガタガタになった体を労わるように、俺は一人、酒を飲もうと浅魂へと向かっていた。
店の暖簾をくぐろうとした矢先、中から出てきた二人組と鉢合わせた。
「……おっと」
思わず道を譲る。
出てきたのは、歌川龍人会の頭領・豊春さんと、若頭の豊国さんだった。
二人の顔つきは、いつになく険しい。
俺の存在に気づいた豊国さんが鋭い視線を向けてきたが、豊春さんは何も言わず、そのまま夜の路地へと消えていった。
(なんだ、あの物騒な空気は……)
首を傾げながら暖簾をくぐると、店内は珍しく客が少なく、静まり返っていた。
カウンターの奥。
いつもなら誰かしらと馬鹿話をしている政信の旦那が、今日は一人で静かに杯を傾けていた。
「……よう、写楽」
俺の足音に気づいた旦那が、ひらひらと手を振って手招きする。
「たまには付き合えや」
「あ、お疲れッス」
俺は少し緊張しながら、旦那の隣の椅子に腰を下ろした。
旦那とサシで飲むなんて、これが初めてかもしれない。
「親父さん、こいつにも一つ頼む」
旦那の注文に、カウンターの奥から店主の攻助さんが
「あいよ」
と短く応える。
すぐに俺の前に杯が置かれ、旦那が自らとっくりを傾けて酒を注いでくれた。
「どうだ。車引きの仕事には慣れたか?」
「まあなんとか。足腰だけは無駄に鍛えられてるんで」
俺が苦笑いしながら答えると、旦那はふっと口角を上げた。
「そうか。……色々としんどいことも多いだろうが、お前には期待してるんだ。あんまり根詰めすぎねえようにな」
飄々としたいつもの口調。
その言葉には、新入りの俺を気遣う確かな温かさがあった。
(旦那……)
俺は杯をぐいっと干し、喉が熱くなるのを感じながら、先ほどから気になっていたことを切り出した。
「……旦那。さっき、店の前で龍人会の豊春さんたちとすれ違ったんですけど。なんか、すげえピリピリしてて……揉め事っすか?」
俺の問いに、旦那はゆっくりと煙管を懐から取り出し、雁首に葉を詰めた。
「……奴らには奴らの、『仁義』があるのさ」
シュボッ、と擦った燐寸の火が、旦那の横顔を赤く照らす。
「仁義……?」
紫煙を細く吐き出しながら、旦那はぽつりと言った。
「写楽。お前、あいつら歌川龍人会が、どうして政府直轄の俺たち浮世組と分かれて、独立組織なんぞやってるか知ってるか?」
俺が首を横に振ると、旦那はどこか遠くを見るような、微かに陰りのある目をした。
「……あれは五年前。全てが後手後手に回っちまった赤坂龍穴事変の時のことだ——」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月5日(土)19時に更新予定です。




