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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ
第十章 兄妹

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浅魂の夜

挿絵(By みてみん)

 その夜。

 浅草の裏路地にひっそりと佇む酒場・浅魂は、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 薄暗い店内のカウンター席で、政信は一人、静かに杯を傾けている。

 しかし、その顔には、いつもの昼行灯のような飄々とした表情はない。

 大倭衆の本格的な動き、そして赤坂で奪われた黒の勾玉。

 事態が急激に動き出していることを、彼の鋭い眼光が物語っていた。

「……政信の旦那」

 不意に、背後から低く静かな声がかけられた。

 店の扉が開いた音など、一切しなかった。

 政信は振り返ることもなく、手元の杯を見つめたまま

「……なんだ、豊春。神妙な面しやがって」

 と、短く応じた。

「少し、話がある」

 政信の背後に音もなく立っていたのは、歌川龍人会を束ねる頭領・豊春と、若頭である豊国だった。

 二人の纏う空気は、夜の冷気よりも冷たく、張り詰めている。

 豊春は、カウンターに肘をつく政信の横顔を見下ろしながら、感情の読めない声で告げた。

「赤坂の件……俺たちは俺たちで動かせてもらう」

「……」

「帝都政府のやり方じゃ、あの時……五年前の赤坂龍穴事変のように、また後手に回るだけだ。俺たちは、同じ轍は踏まねえ」

 豊春の揺るぎない覚悟を秘めた言葉に、政信は何も答えない。

 ただ、静かに酒を呷るだけだ。

 その政信の態度に苛立ったように、隣に立つ豊国が一歩前に出る。

「旦那! 俺たちは本気だぜ! 腑抜けた政府の指図なんか待ってられねえ! 俺たちのシマは、俺たちの手で守るんだよ!」

 豊国はギリッと奥歯を鳴らした。

 血の気の多い彼にとって、後手に回る政府の対応はもどかしさでしかない。

 自らの拳で仲間を守り、敵を叩き潰す。

 それが彼の、そして龍人会の信条なのだ。

 政信はゆっくりと杯を置くと、ふうっと短く息を吐き出した。

「……好きにしろ」

 政信は、依然として振り返らないまま、短く言った。

「だが、危ねぇ真似だけはするんじゃねえぞ」

「……へっ、ガキじゃあるめえし」

 鼻を鳴らして応えたのは豊国だった。

 豊春はそれ以上言葉を交わすことなく、静かにきびすを返す。

 豊国もまた、鋭い視線を一度政信に向けた後、頭領の背中を追う。

 二人の姿が、音もなく夜の闇へと溶けていく。

 残された政信は、再び杯を手に取った。

 政府直轄の浮世組と、独立部隊である龍人会。

 やり方は違えど、帝都を守るという想いは同じ。

「……若えのには、かなわねえな」

 政信の呟きは、誰に聞かれることもなく、静寂の店内に吸い込まれていった。


 その日の仕事終わり。

 ガタガタになった体を労わるように、俺は一人、酒を飲もうと浅魂へと向かっていた。

 店の暖簾をくぐろうとした矢先、中から出てきた二人組と鉢合わせた。

「……おっと」

 思わず道を譲る。

 出てきたのは、歌川龍人会の頭領・豊春さんと、若頭の豊国さんだった。

 二人の顔つきは、いつになく険しい。

 俺の存在に気づいた豊国さんが鋭い視線を向けてきたが、豊春さんは何も言わず、そのまま夜の路地へと消えていった。

(なんだ、あの物騒な空気は……)

 首を傾げながら暖簾をくぐると、店内は珍しく客が少なく、静まり返っていた。

 カウンターの奥。

 いつもなら誰かしらと馬鹿話をしている政信の旦那が、今日は一人で静かに杯を傾けていた。

「……よう、写楽」

 俺の足音に気づいた旦那が、ひらひらと手を振って手招きする。

「たまには付き合えや」

「あ、お疲れッス」

 俺は少し緊張しながら、旦那の隣の椅子に腰を下ろした。

 旦那とサシで飲むなんて、これが初めてかもしれない。

「親父さん、こいつにも一つ頼む」

 旦那の注文に、カウンターの奥から店主の攻助さんが

「あいよ」

 と短く応える。

 すぐに俺の前に杯が置かれ、旦那が自らとっくりを傾けて酒を注いでくれた。

「どうだ。車引きの仕事には慣れたか?」

「まあなんとか。足腰だけは無駄に鍛えられてるんで」

 俺が苦笑いしながら答えると、旦那はふっと口角を上げた。

「そうか。……色々としんどいことも多いだろうが、お前には期待してるんだ。あんまり根詰めすぎねえようにな」

 飄々としたいつもの口調。

 その言葉には、新入りの俺を気遣う確かな温かさがあった。

(旦那……)

 俺は杯をぐいっと干し、喉が熱くなるのを感じながら、先ほどから気になっていたことを切り出した。

「……旦那。さっき、店の前で龍人会の豊春さんたちとすれ違ったんですけど。なんか、すげえピリピリしてて……揉め事っすか?」

 俺の問いに、旦那はゆっくりと煙管を懐から取り出し、雁首に葉を詰めた。

「……奴らには奴らの、『仁義』があるのさ」

 シュボッ、と擦った燐寸の火が、旦那の横顔を赤く照らす。

「仁義……?」

 紫煙を細く吐き出しながら、旦那はぽつりと言った。

「写楽。お前、あいつら歌川龍人会が、どうして政府直轄の俺たち浮世組と分かれて、独立組織なんぞやってるか知ってるか?」

 俺が首を横に振ると、旦那はどこか遠くを見るような、微かに陰りのある目をした。

「……あれは五年前。全てが後手後手に回っちまった赤坂龍穴事変の時のことだ——」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は9月5日(土)19時に更新予定です。

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