昼下がりの来客
赤坂旧龍穴での死闘から数日後。
どんよりとした曇り空が広がる昼下がり、浅草浮世組の事務所に、一人の珍しい来客があった。
「突然の訪問、申し訳ありません。あの……こちらに、兄はおりますでしょうか」
入り口の土間に立っていたのは、落ち着いた浅葱色の着物を上品に着こなす女性だった。
年の頃は二十三、四といったところか。
整った顔立ちには、深く思い詰めたような疲労の色が滲んでいる。
奥の座敷で煙管をくゆらせていた政信が、静かに目を向けた。
「……お前さんの、兄貴?」
「はい。以前、こちらでお世話になっていたと聞いております。……石燕と申します。私は妹の、五月と申します」
石燕。
その名が出た瞬間、事務所の空気が一瞬にして凍りついた。
その場に居合わせた清長の顔が硬直し、写楽も思わず息を呑む。
清信だけが、静かに目を細めて五月を見つめていた。
「……石燕の、妹さんですか」
清信が、努めて穏やかな声で応じる。
五月は不安げに頷くと、懐から少し古びた一通の封筒を取り出した。
「実は二年前、兄が突然姿を消す直前に、この手紙が届きまして。『少しの間連絡が取れなくなるが、決して心配はするな』と……。兄は昔からこまめに手紙をくれる人で、こんな不自然な文面は一度もありませんでした。ずっと行方を探して、ようやく以前こちらでお世話になっていたと知り……。何か事件に巻き込まれたのではないかと、心配でたまらず……」
五月の声は微かに震えていた。
その手紙の文面は、大倭衆として完全に影の世界へ潜る直前に、石燕が妹へ残した最後の人間らしさだったのかもしれない。
だが、浮世組の面々は知っている。
石燕は事件に巻き込まれたのではない。
自らの意志で大倭衆という帝都の敵に与し、あまつさえ数日前の赤坂で、禍々しい黒の勾玉を奪い去っていった張本人だという残酷な真実を。
(……そんなこと、この人に言えるわけがねえ)
写楽は奥歯を噛み締めた。
清長もまた、赤坂でかつての仲間に刃を向けられた怒りと、何も知らない妹を前にしたやり場のない感情に、固く拳を握りしめて俯いている。
重い沈黙が落ちる中、たまらずに口を開いたのは応為だった。
「五月さん、だよね」
応為は、五月の前に歩み寄ると、その震える手を両手でそっと包み込んだ。
「……心配、だったよね」
「えっ……?」
「あたしも、兄貴がいるから。いなくなったらって考えると、その不安、痛いほどわかるよ」
応為の年齢は二十。
五月とは三つしか離れていない。
同じ「手のかかる兄を持つ妹」として、五月の不安な気持ちが痛いほど理解できたのだ。
石燕が道を踏み外した事実を知っているからこそ、応為の胸には、何も知らない五月に対する強い同情と不憫さが込み上げていた。
「……ありがとうございます」
応為の温かい言葉に、五月の瞳からほろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「政信の旦那、清信さん。……五月さん、随分歩き回って疲れてるみたい。少し、奥で休んでもらってもいいかな?」
応為の頼みに、政信と清信は無言で頷き合った。
敵となった男の肉親とはいえ、この健気で兄想いな女性を、このまま冷たく追い返すことなど、彼らにはできなかった。
「さあ、五月さん。温かいお茶でも淹れるからね」
「本当に……ご親切に、ありがとうございます……」
何度も頭を下げる五月の背中をさすりながら、応為は彼女を奥の部屋へと案内していく。
残された男たちは、その背中をただ重苦しい沈黙の中で見送ることしかできなかった。
数日後。
浅草の仲見世通りは、今日も多くの人で賑わっていた。
その喧騒の中を、応為と五月が並んで歩いている。
五月の滞在先探しや、帝都での不慣れな生活を案じた応為が、積極的に彼女の世話を焼くようになっていたのだ。
「五月さん、ここのきんつば、美味しいんだよ。甘すぎなくて」
「まあ。美味しそうですわね」
五月は、応為が差し出した包みを上品な手つきで受け取り、小さく口に運ぶ。
口元を袖でそっと隠し、ふふっと微笑むその所作は、同性である応為の目から見てもハッとするほど美しい。
(……大人だなあ。あたしも、あんな風に笑えたらいいんだけど)
自分にはない、二十三歳という年上の女性が持つ落ち着きとたおやかさ。
少し前まで男勝りに振る舞っていた応為だったが、兄の不器用な愛情を知ってからというもの、五月の洗練された姿は密かな憧れの対象になりつつあった。
二人は浅草寺の境内を抜け、少し静かな裏手にある茶屋で一息つくことにした。
温かいお茶をすすりながら、応為はぽつりとこぼす。
「ごめんね、五月さん。まだお兄さんのこと、何も分からなくて……」
「いいえ。応為さんたちが気にかけてくださるだけで、私、どれほど心強いか……。本当に、ありがとうございます」
「いいんだよ、そんなの。あたしも兄貴がいるから、五月さんの気持ち、痛いほどわかるし」
応為は、照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
「うちの兄貴もさ、腕は立つんだけど、変に頑固っていうか、不器用っていうか。放っておくと何しでかすか分かんないから、あたしがしっかり見てなきゃって、いつもハラハラするんだ」
「ふふっ。素敵なご兄妹ですわね」
五月は目を細め、どこか遠くを見るような優しい表情を浮かべた。
「私の兄も……昔はそうでした。私が何をするにも心配して、先回りして守ってくれて……。少し過保護すぎるくらいで、よくケンカもしましたけれど……」
寂しげに伏せられた五月の睫毛。その姿に、応為の胸がぎゅっと締め付けられる。
大倭衆として暗躍する石燕の冷酷な姿を知っているからこそ、応為は五月に真実を告げられない自分を不甲斐なく思い、同時に、この優しく健気な女性を自分が支えなければと強く決意していた。
「大丈夫だよ、五月さん! 何かあったら、あたしたち浮世組が絶対力になるから!」
「応為さん……。ええ、私、応為さんの言葉を信じますわ」
五月は、応為の手を、自分の白く滑らかな両手でそっと包み込んだ。
その温もりに、応為はホッと安堵の息をつく。
「さあ、それじゃあ次はどこに行こっか! 浅草の美味しいもの、全部案内するよ!」
応為の明るい声が茶屋の軒先に響く。
五月はそれに応えるように、優しく、そして上品な微笑みを返した。
二人の間には、温かく穏やかな時間が流れている。
浅草の空は、どこまでも澄み切っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月2日(水)19時に更新予定です。




