暁の瞳
赤坂での死闘で疲労困憊の清長は、自室に戻る気力もなく、浮世組にある待機室の長椅子に身を沈めていた。
斬られた肩の痛みが、ずきりと走る。
だが、それ以上に、心の傷が深く彼の全身を蝕んでいた。
瞼を閉じると、意識はあっという間に、深い闇の中へと沈んでいく。
そして、悪夢が始まった。
蘇るのは、五年前の記憶。
まだ、彼が規律の鬼となる前の、若き日の光景。
雪の降る大晦日。
場所は、同じ赤坂の旧龍穴。
異常な量の龍輝噴出調査に出向いた若き日の清長は、龍穴の最奥で、二つの禍々しい影と対峙する。
一人は夜叉、もう一人は蜘蛛の仮面で顔を隠した二人の剣士、夜叉丸と蜘蛛丸だった。
『——ぐっ……! この二人、あまりにも強い……!』
若さゆえの焦りが、判断を誤らせた。
単独での深入り。
それが、命取りとなった。
蜘蛛丸の容赦ない一撃が、清長の体勢を大きく崩す。
足がもつれ、彼の体は龍穴の深い闇へと真っ逆さまに吸い込まれていく。
その時だった。
『清長っ!』
絶体絶命のその瞬間、遠くから二つの声が響く。
それからほどなく、淵に落ちんとする清長の腕は何者かの手に掴まれた。
『清長、無事か!』
その手は師である清信のものであった。
駆けつけたもう一つの声の主である政信は、夜叉丸と蜘蛛丸の前に立ち塞がり、清信が清長を救う時間を稼ぐ。
だが、ウキヨ英士として清信と双璧をなす実力者である政信も、二対一の状況はあまりに不利だった。
『清信! どうだ!?』
『もう……少しだ……』
蜘蛛丸は、政信が清長らに気を取られたその一瞬を見逃さなかった。
身構える政信を欺き、その脇をすり抜ける蜘蛛丸。
蜘蛛丸はその凶刃を、清長を救い上げた直後の無防備な清信に容赦なく突き刺した。
『ぐ……ぁ……っ!』
清信の鮮血は清長の顔を濡らし、周囲を真っ赤に染め上げる。
その直後、呆然と立ちすくむ政信を横目に、夜叉丸は龍穴の証である鳥居を破壊。
凄まじい轟音と共に龍穴が崩壊を始め、赤坂龍穴はその役割を終えた。
それ以降、帝都に三つあった龍穴は二つとなったのである。
この出来事は、赤坂龍穴事変という名でウキヨ英士達の記憶に刻まれている。
そして清長にとって、自らの未熟さが敬愛する師からウキヨ英士としての未来を奪った、忘れられぬ忌まわしき記憶。
「……うっ……うぅ……っ!」
長椅子に身をゆだねる清長が苦悶の声を漏らす。
その瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
後悔という名の傷は、五年という月日が経った今も、癒えることはない。
「……う……ぁ……っ!」
自らの呻き声で、清長は悪夢から目覚めた。
びっしょりと寝汗をかき、心臓が鉛のように重い。
ぜえぜえと肩で息をしながら、ゆっくりと身を起こす。
「……また、あの日の夢か」
静かな声に、はっと顔を上げる。
いつからそこにいたのか、清信が湯気の立つ茶碗を手に長椅子の脇に静かに座っていた。
その穏やかな表情からは、彼の心中をうかがい知ることはできない。
「……清信、さん」
清長は、何か言おうとして、言葉に詰まった。
謝罪か、それとも弱音か。
どんな言葉も、この無様な姿の前では虚しく響く。
「飲め。少しは落ち着く」
清信は多くを語らず、ただ茶碗を差し出す。
清長は震える手でそれを受け取り、温かい茶を一口、喉に流し込んだ。
茶の香りが、悪夢の残り香を少しだけ和らげてくれる。
「……申し訳、ありません」
ようやく絞り出したのは、そんな言葉だった。
「何がだ」
「俺が、未熟だったばかりに……清信さんの、力を……!」
「やめろ」
清信の有無を言わせぬ声が、清長の言葉を遮った。
「お前が背負うべきは、過去への悔恨じゃない。未来への覚悟だ」
清信は、静かに立ち上がると、清長の肩にそっと手を置いた。
「お前は、お前の信じるやり方で、仲間を、帝都を守れ。……これからも頼んだぞ」
それだけを言うと、清信は静かに部屋を出て行った。
残された清長は、手の中の茶碗の温もりをただじっと感じていた。
師が残した言葉の意味を、何度も何度も噛み締めるように。
夜明けは、もうすぐだった。
応為を送り届けた写楽は、誰とも顔を合わせることなく浅草浮世組の自室へ戻っていた。
どさりと畳に倒れ込み、大きく息を吐く。
夜が明け、浅草の街はいつもの活気を取り戻し始めていた。
でも俺は畳にごろりと寝転がったまま、染みだらけの天井をぼんやりと見上げていた。
障子戸の隙間から差し込む日の光が、やけに目に染みる。
頭の中は、赤坂旧龍穴で遭遇した大倭衆のことでいっぱいだった。
滝夜叉姫。
石燕。
栄之。
そして、夜叉丸……
黒い勾玉を持ち去った奴らは、一体何を企んでいる?
浮世組の過去を知らない俺には、想像することすら難しい。
そして、瞼の裏に焼き付いて離れない、鮮血で深紅に染め上げていく歌麿の陣羽織……
凶刃に倒れる歌麿の姿が今も鮮明に思い返される。
だが、その歌麿の死は、過去に遡ることで回避することができた。
ペンダントが起こした奇跡……
まだ信じられないが、歌麿は浅草へ生還することができたのだ。
それでも、俺は心の底から安堵することができなかった。
あれは、ただの偶然だったのかもしれない。
この力が、次も俺を助けてくれる保証なんてどこにもない。
偶然の奇跡に頼らず、この手で仲間を守り抜くためには——
(……もっと、強くなりてぇ)
俺は、無意識に胸のペンダントに触れた。
ひんやりとした金属の感触が、指先に伝わる。
その時だった。
指先に触れたペンダントが、淡く柔らかな光を放ち始めた。
(なんだよ、これ!?)
俺は驚いて、がばりと身を起こす。
ペンダントを見つめていると、初めて過去に戻ったあの時と同じ女性の荘厳な声が、脳裏に直接響き渡った。
『——鏡は、運命を映す暁の瞳……』
静謐で、どこか遠い響きを持つ声が、まるで時を超えて囁くように語り続ける。
『強き想いは星火の波紋となり、時として運命さえ塗り替える力となるでしょう……』
「運命を、塗り替える……? どういうことだよ!?」
思わず声を荒げて呟くと、ペンダントの光はまるでその問いに答えるかのように、一瞬、強く輝きを増した。
『鏡は、失われた時をただ映し出すためだけにあらず。……写楽。あなたには、この意味がわかるはず……』
「待ってくれ! あんたは一体なにもんなんだ!? 失われた時ってどういうことだよ!?」
叫んだ瞬間、ペンダントの光はすうっと消え、声は虚空の彼方へと溶けるように途切れる。
残されたのは、朝日が差し込む静かな部屋と、俺の荒々しい鼓動だけだった。
(想いが運命を変える……? そんな力が、このペンダントに?)
俺は滾る鼓動を抑えきれず、ペンダントを強く握りしめた。
このペンダントはいったい何だ。
あの声の主は誰なんだ。
謎は未だに霧の向こうにある——だが、俺の胸に一つの確信が刻まれた。
それは、このペンダントが、俺自身の想いに応え、未来を切り開く力をくれるということ。
俺は、ゆっくりと立ち上がり、拳を握った。
胸の奥で、決意の炎が燃え上がる。
迷いはもうどこにもない。
仲間たちを、この帝都を、絶対に守り抜いてみせる!
朝日が、まるで新たな運命を告げるかのように、俺の顔を力強く照らし出していた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は8月31日(月)19時に更新予定です。




