盟友の秘密
「——組頭、ご報告があります」
清長の声に、北斎もはっとしたように応為から手を離す。
政信の旦那が、静かに頷くのが見えた。
「聞かせろ」
「はっ。赤坂旧龍穴にて、大倭衆と接触。……現れたのは、栄之、石燕、そして——滝夜叉姫でした」
清長の報告に、政信の旦那と清信さん、そして北斎の表情が険しくなる。
「やはり、大倭衆が背後にいたか……」
政信の旦那が、忌々しげに呟く。
「……待ってくれ!」
俺は、思わず声を上げた。
「それだけじゃねぇ。俺が戦った相手は、鬼面みてえな、不気味な仮面をつけた男だった」
あの時見た仮面の奥から突き刺さった冷たい視線と、紫の龍輝筆刃が放つ気配を思い返し報告すると、清信さんが眉をひそめる。
「……夜叉丸か」
北斎が静かに呟き、清長は報告を続ける。
「連中は、赤坂旧龍穴で黒い勾玉を探していたようです。残念ながら、勾玉は既に石燕が見つけており、持ち去られてしまいました……」
「……そうか」
政信の旦那は、全ての報告を聞き終えると、重々しく頷いた。
その表情は、これまで見たこともないほどに険しい。
事態は、俺が思っている以上に深刻なのかもしれない。
「清長、歌麿。まずはお前らの手当てが先だな。……詳しい話はそれからだ」
政信の旦那が、傷を負った二人に背を向けて車宿の中に入っていく。
「「はっ」」
二人は、深々と頭を下げて政信の旦那に続いた。
清信さんが二人の後に続き、車宿の中に入っていった。
残されたのは、俺と、応為と、北斎。
再び、重い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、北斎だった。
彼は、ゆっくりと応為の前に歩み寄ると、その小さな肩を強く掴んだ。
「……応為」
絞り出すような、低い声。
「……二度と、俺にこんな思いをさせるんじゃねえ」
それは、怒りよりも、悲痛な響きを帯びていた。
妹を失っていたかもしれないという恐怖。
その本心が、不器用な言葉となって現れる。
応為は、兄の瞳に浮かぶ深い苦悩の色を見て、はっと息を呑んだ。
北斎は、それだけを言うと、掴んでいた手をそっと離し、俺たちに背を向けた。
「……写楽。後のことは頼んだ」
振り返ることなく呟くと、北斎は一人、白み始めた浅草の街へと歩き去っていった。
残されたのは、気まずい沈黙と、夜明けの冷たい空気だけだった。
隣に立つ応為は、兄が去っていった道を、ただ呆然と見つめている。
その瞳は、傷ついたように揺れていた。
「……応為」
俺が声をかけると、彼女の肩が小さく震えた。
「……あたしは……」
絞り出すような声。
「あたしは、ただ、兄貴の役に立ちたかっただけなんだ……。足手まといになんて、なりたかったわけじゃ……」
俯いた彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
その姿が、あの時見た、血に濡れて倒れる彼女の姿と重なった。
胸が、締め付けられるように痛む。
(……分かってる。お前が、誰よりも真っ直ぐで、心優しい奴だってこと……)
でも、その言葉を口にすることはできなかった。
今の俺には、その資格がない。
俺は、ただ黙って彼女の隣に立ち、その小さな背中が落ち着くまで、静かに待った。
しばらくして、しゃくり上げる声が少しだけ収まった頃、俺は静かに言った。
「……家まで、送ってく」
応為は、こくりと小さく頷いた。
応為の家に向かう間、俺たちは一言も話すことなく、隣を歩く彼女の鼻をすする音だけが、やけに大きく聞こえた。
応為の家は、浮世組からほど近い、小さな長屋。
戸口の前まで来ると、彼女はふと立ち止まり振り返る。
まだ少しだけ赤くなった目で、俺の顔をじっと見ると、初めて彼女が俺の名前を呼んだ。
「……ありがと、写楽」
その声は、まだ少しだけ震えていたけれど、俺の心に響いた。
「「……おう」
俺は、それだけを返すのが精一杯だった。
彼女は、ぺこりと小さく頭を下げると、家の中へと入っていく。
その背中を見送ってから、俺も踵を返した。
夜明けの空気が、少しだけ暖かく感じられた。
写楽と応為が去った後、浅草浮世組には、夜明け前の冷たい空気と重い沈黙が残されていた。
組頭である政信の部屋では、灯されたランプの光が集った者たちの険しい顔を照らし出している。
政信、清信、そして手当を終えた清長と歌麿。
誰もが、赤坂旧龍穴で起きた出来事の重さを、改めて噛み締めていた。
「滝夜叉姫、石燕、栄之、夜叉丸……そして、黒い勾玉か」
政信が、忌々しげに呟く。
二年前の悪夢が、再び帝都に牙を剥こうとしていた。
「栄之の剣……まるで別人だったわ。以前の彼には、もっと美しさがあったのに……」
歌麿が、悔しそうに唇を噛む。
その脳裏には、変わり果てた栄之の姿が焼き付いているのだろう。
清長は、黙して語らない。
ただ、固く握りしめられた拳が、彼の無念さを物語っていた。
張り詰めた空気の中、それまで目を閉じ沈黙を通していた清信が、誰に言うでもなく呟いた。
「黒の勾玉……やはり、赤坂にあったか……」
その意味深な言葉を、政信の鋭い耳は聞き逃さなかった。
彼は、長年の盟友である清信へ、静かに視線を向ける。
清信は、はっとしたように口を噤むが、二人の間に言葉にならない緊張が走る。
「清長、歌麿、お前たちには自室での待機を命じる」
政信の命令に清長は異を唱える。
「しかし、大倭衆の動きが明らかになった今、休んでいる場合では!」
政信はそれまでの険しい表情を解き、いつもの飄々とした口調で清長の言葉に応えた。
「もちろん、大倭衆は必ず次の一手を打ってくるだろう。そのためにも今は体を休めろ」
政信は、それ以上何も言わず、ただ静かに解散を命じた。
歌麿は一礼し、部屋を後にする。
清長もまた深々と頭を下げると、ふらつく足取りで部屋を出ていった。
清長と歌麿が去った部屋に、再び静寂が訪れる。
政信は、机に置かれた杯に視線を落としたまま、静かに口火を切った。
「……清信」
その声には、いつもの飄々とした響きはない。
「さっきの言葉、どういう意味だ」
「……何のことだ」
とぼける盟友に、政信はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、獲物を見据える獣のように鋭い。
「『黒の勾玉……やはり、赤坂にあったか』。てめえ、何か知ってやがるな」
清信は、ふう、と長い溜息をつくと、観念したように口を開いた。
「……五年前のあの日から、俺は独り大倭衆の動きを追っていた」
「……!」
政信の顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「なぜ、俺に黙っていた」
「お前さんを、巻き込みたくはなかった」
清信の声は、穏やかだった。
だが、その奥には、固い決意が秘められている。
「これは、俺の個人的な戦いだ。俺の力を奪った蜘蛛丸……奴らへの……」
清信は、自らの右手の甲を、静かに見つめた。
そこにあるはずのウキヨ英士の証——極印は、龍輝を練らねば見えぬほど、薄く消えかかっている。
今の清信には、龍輝を満足に制御することができなくなっていた。
「赤坂龍穴事変は、ただの襲撃じゃねえ。奴らはあの混乱に乗じて、何かを探していた。俺にはそう思えてならなかった。だから、奴らが再びあの場所を狙うと踏んでいたんだ」
衝撃の事実に、政信は言葉を失う。
「……なぜ、それを今まで……!」
「言ったところで、どうする? 確証もねえ情報で、若い連中を危険に晒すわけにはいかねえだろう。それに、」
清信は、政信の目を真っ直ぐに見据えた。
「オレとお前さんは立場が違う。お前さんは組頭として、常に組全体のことを第一に考えなきゃならねえ。オレの私情なんぞで足を引っ張らせるわけにはいかないだろ……」
友を想うがゆえの、秘密。
重い沈黙が、部屋に落ちる。
政信は、静かに立ち上がると、黙ったまま清信の前まで歩み寄った。
そして、その肩を無言で強く掴んだ。
「……てめえ、馬鹿野郎が」
絞り出すような、低い声。
「一人で背負い込みやがって……。俺たちが何のためにいるんだ」
それは、組頭としてではない。
一人の友としての、魂からの叫びだった。
「聞け、清信。てめえの力は、必ず俺が取り戻してやる。どんな手を使ってもだ。だから、一人で戦おうとすんじゃねえ。もっと俺たちを頼ってくれ」
清信は、驚いたように目を見開いたが、やがて、その口元に微かな笑みが浮かんだ。
「……無茶を言う」
「てめえが言うな」
短い言葉の応酬。
だが、その一言一言に、二人の長年の絆が凝縮されていた。
大倭衆という巨大な敵を前に、一瞬生まれかけた溝は、より固い友情によって埋められるのであった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は8月29日(土)19時に更新予定です。




