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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ
第九章 赤坂旧龍穴(後編)

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静かなる帰還

挿絵(By みてみん)

「……あたし……。なんで、あの女、あたしを……」

 震える声が、彼女の不安を物語っている。

 俺は、かける言葉を見つけられなかった。

「……奴ら、一体何が目的だ。あの黒い勾玉は一体……」

 壁に寄りかかり、肩で息をしながら、清長が忌々しげに吐き捨てる。

 その言葉で、俺はハッと我に返った。

 そうだ、まだ終わっちゃいねえ。

 俺は物陰からそっと顔を出し、応為に合図を送ってから清長の元へと駆け寄った。

「清長、大丈夫か!?」

「写楽か……。ああ、大したことはない」

 清長は、斬られた肩を押さえながら気丈に答える。

 だが、その顔色は明らかに悪い。

 しかし、俺の後ろに立つ応為の姿に気づくと、その眉間に深い皺が刻まれた。

「貴様、なぜここに……! ここは一般人が足を踏み入れていい場所ではないぞ!」

 清長の厳しい声が飛ぶと、応為がびくりと肩を震わせる。

「話は後だ!」

 俺は、清長の言葉を遮るように叫んだ。

「それよりも、歌麿だ! あいつの身が心配だ。急いで合流しよう!」

 俺の必死の形相に、清長はぐっと言葉を飲み込み無言で頷いた。

 忌々しげに応為を一瞥したが、今は歌麿の安否が優先だと判断したのだろう。

 俺たちは、残された最後の坑道——歌麿がいるはずの場所へと、足を速めた。


 坑道の奥で、俺たちは歌麿を見つけた。

 彼は地面に膝をつき、荒い息を繰り返していた。

 美しい薄紅色の陣羽織には、ところどころ鋭利な刃が走った裂け目が刻まれている。

 どうやら、栄之との間で激しい斬り合いがあったようだ。

 だが、その瞳には、まだ闘志の光が宿っていた。

 俺たちの姿を認めると、歌麿は驚いたように目を見開き、そして、ふっと安堵したように笑みを浮かべた。

「……写楽ちゃん……清長ちゃんも。……無事だったのね。って応為ちゃん!?」

 その姿を見て、俺は心の底から安堵した。

 歌麿は助かった。

 最悪の未来は、回避できたはずだ。

 だが、俺の胸には、安堵よりも大きな不安の染みが、じわりと広がっていた。

 あの黒い勾玉。

 連中の目的は、一体何なんだ……。

「立てるか、歌麿?」

 俺は、歌麿に肩を貸した。

「なんとかね……。でも、写楽ちゃん。一体、どういうことなの? なんで応為ちゃんがここに……」

 歌麿の視線は、応為に向けられたままだ。

 無理もない。

 まさかこんな場所に、一般人である応為がいるとは夢にも思わなかっただろう。

「話は後だ。一度、浅草に戻るぞ」

 清長は歌麿の問いを遮り、苦々しい表情で短く告げる。

 俺も、一刻も早くこの不気味な場所から離れたかった。


 赤坂旧龍穴からの帰り道は、ひどく長くて、静かだった。

 俺は、傷を負った清長と歌麿を乗せて人力車を引く。

 誰も、口を開かなかった。

 歌麿は、まだ本調子ではないのか、時折苦そうに息をついている。

 清長は、斬られた肩を押さえながら、苦虫を噛み潰したような顔で前だけを見据えている。

 そして俺の隣を歩く応為は、さっきから一言も発しない。

 彼女の小さな肩が、恐怖と混乱で震えているのが、俺にも分かった。

 歌麿を救えた安堵と、新たな謎への不安。

 二つの感情が、俺の中で渦を巻いていた。

 未来は、変えられた。

 だが、それは同時に、俺の知る歴史とは違う全く新しい未来が始まったことを意味する。

 これから、何が起こるのか。

 滝夜叉姫という女。石燕と栄之。そして、あの禍々しい黒い勾玉は……

 夜の空気が肌寒い。

 ようやく浅草の街並みが見えてきた頃には、空は白み始めていた。


 いつもの賑わいはまだなく、静まり返った仲見世通りに俺たちの重い足音だけが響く。

 浮世組にたどり着くと、入り口の戸が静かに開いた。

 中から現れたのは、政信の旦那と清信さん——それと応為の兄貴である、北斎だった。

 三人の表情は、夜明け前の空よりも暗く、険しい。

「……よく戻った、お前たち」

 俺たちの無事な姿を見て、清信さんが静かに呟く。

 その声には安堵の色が滲んでいたが、すぐに厳しいものへと変わった。

 北斎は、何も言わない。

 ただ、その氷のように冷たい視線は、まっすぐに俺の横に立つ妹——応為へと突き刺さっていた。

 浮世組の門前に漂う、重く、張り詰めた空気。

 夜明け前の静寂が、まるで嵐の前の静けさのように俺たちの肩にのしかかる。

 その息の詰まるような沈黙を破ったのは、応為の兄——北斎の、地を這うような低い声だった。

「……応為」

 氷のように冷たい声。

 その声に、応為の肩がびくりと震えた。

「……お前、なぜ清長たちと一緒にいる」

 静かな問い。

 だが、その声には、鞘から抜き放たれる寸前の刃のような鋭い怒気が宿っていた。

 北斎は、応為の腕を掴む。

 その力は強くはない。

 だが、決して逃がさないという、強い意志が込められていた。

「ウキヨ英士の任務に、お前のような素人が関わることの意味を、理解しているのか」

「いっ……!」

 応為が、痛みに顔を歪める。

(くそっ……俺たちが気づけていれば……!)

 俺は、咄嗟に二人の間に割って入ろうとした。

「待ってくれ、北斎! 応為は悪くねえ、俺……」

「……写楽。少し黙っていろ」

 北斎の静かな声が、俺の言葉を遮る。

「だって……写楽たちが、危ないって……!」

 応為が、掴まれた腕の痛みに耐えながら、か細い声で反論する。

「だから、どうした。お前に何ができた。足手まといになるだけだろうが」

「それでも……!」

 俺は唇を噛み締めて見ていることしかできなかった。

 しかし、その張り詰めた空気を、清長の冷静な声が切り裂いた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は8月26日(水)19時に更新予定です。

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