妖艶なる影
「ぐっ……!」
後方へ飛び退った清長の肩からは、血が滲んでいる。
清長の顔に、焦りと、そして見たことのない恐怖の色が浮かぶ。
(……加勢するしか、ねえか)
俺は、龍輝筆刃を握る手に力を込める。
今飛び出せば、清長の助けにはなるだろう。
だが、それは同時に、俺たちの存在を敵に知らせることになる。
どうするべきか。
思考を巡らせた、その時だった。
「——石燕、まだ見つからないのかしら」
凛とした、それでいてどこか底冷えのする女の声が、闇の奥から静かに響いた。
その声に、激しく斬り結んでいた清長と男の動きが、ぴたりと止まる。
俺と応為も、息を呑んで声のした方を見た。
ゆらり、と。
闇の中から、一人の女が姿を現した。
月明かりに照らされたかのように艶やかな和服姿。
その歩みは、まるで氷上を滑るように優雅で、静かだ。
だが、その全身から放たれる圧倒的な存在感は、この場の空気を一瞬にして支配する。
「……滝夜叉姫……! 貴様もいたのか!」
清長が、驚愕と敵意を露わに叫ぶ。
女はその問いには答えず、ただ扇子で口元を隠し妖艶に微笑んだ。
「まあ、そう殺気立たないでちょうだいな。二年ぶりかしら? ……相変わらず、その剣筋は美しいわね。あの時、手に入れ損なったのが悔やまれるわ」
その言葉は、まるで品定めをするかのようだ。
女はゆっくりと石燕と呼んだ男の隣に立つと、その視線を俺たちが隠れる物陰へと、すっと向けた。
俺は、心臓が凍り付くのを感じた。
(……見られてる!?)
「あら……。あそこに隠れているのは、可愛らしい子ネズミかしら?」
女の唇が、三日月のように歪んだ。
(……くそっ!)
全身の血が、一瞬で沸騰するような感覚。
咄嗟に俺は、応為の前に半身を乗り出し、彼女を背中に庇う。
龍輝筆刃を握る手にも、ぐっと力がこもる。
見つかったからには、もう後戻りはできねえ。
相手が誰だろうと、応為は俺が守る。
「姫様、ご安心を」
張り詰めた空気を破ったのは、石燕と呼ばれた男の落ち着き払った声だった。
「そのような些事より、ご報告がございます」
滝夜叉姫は、つまらなそうに俺たちから視線を外すと、石燕へと向き直る。
「……見つかったのね?」
「は。こちらに」
石燕は不気味な笑みを浮かべると、懐からゆっくりと一つの物体を取り出した。
それは、漆黒の勾玉だった。
こぶし大ほどの大きさで、まるで闇そのものを固めたかのように、周囲の光さえ吸い込んでいく。
見ているだけで、魂が底なしの沼に引きずり込まれそうな、禍々しい気配を放っていた。
(……なんだ、ありゃあ……)
得体の知れない悪寒が、背筋を駆け上る。
ペンダントが、勾玉の邪気に反応するかのように、俺の胸元で微かに熱を帯びる。
「まあ、よくやったわ、石燕」
滝夜叉姫は、その黒い勾玉に満足げな視線を送ると、今度は別の坑道の暗闇に向かって、鈴を転がすような声で呼びかけた。
「栄之、もういいわ。戻ってきなさい」
その声に応えるように、しばらくすると坑道の闇から、一人の男が静かに姿を現す。
石燕と同じ血色のマントに身を包んだ立ち姿。
忘れもしない。
歌麿を手にかけた男——栄之。
俺は、息を呑んで栄之の全身を観察する。
その手は、血に濡れていない。
衣服にも、争ったような乱れはない。
(……そうか……)
安堵の息が、思わず漏れた。
俺が過去に戻り、別の道を選んだことで、歌麿が栄之に命を奪われるという未来は回避されたのだ。
あの凄惨な光景が再現されることは、もうない。
込み上げてくる熱い感情を、俺は奥歯を噛みしめて必死にこらえた。
歌麿は助かった。
だが、状況は決して良くはない。
手負いの清長。そして、敵は三人。
しかも、どいつもこいも、底が見えねえ化け物ばかりだ。
滝夜叉姫は栄之の姿を一瞥すると、再び扇子で口元を隠しながら、その妖しい視線を俺たちのいる物陰へと向けた。
「石燕……」
滝夜叉姫が、意味深に呟く。
その声に応えるように、隣に立つ石燕もまた俺たちのほうに目をやり、何かを確信したように不気味な笑みを浮かべた。
(……なんなんだ、こいつら……)
剣を交えるのとは、また違う種類の悪寒が背筋を走る。
「そう。ならば、もうここには用がないわね」
滝夜叉姫は、俺の心の動揺を見透かしたかのように、満足げに頷いた。
「石燕、栄之。参りましょう」
その言葉を合図に、三人は静かに踵を返す。
「待て!」
清長は叫ぶが、滝夜叉姫は、手にしていた扇子をすっと振るうと、三人の足元に、まるで水面に墨を垂らしたかのような濃密な闇が広がる。
次の瞬間、闇は三人の体を音もなく飲み込み、跡形もなく消え去っていた。
「……消えた……?」
応為の呆然とした呟きが洞窟に響く。
後には、ただ不気味な静寂だけが残された。
さっきまでの死闘が、まるで悪夢だったかのように。
「大丈夫か、応為?」
俺は、背後に庇っていた彼女の肩にそっと手を置く。
応為は、こくりと頷いたが、その顔は恐怖で青ざめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は8月24日(月)19時に更新予定です。




