政信の賭け、開かれる扉
三社祭の熱狂が嘘のように静まり返った、その日の夜。
浅草浮世組の拠点、その奥にある組頭の部屋では、重い空気が沈殿していた。
部屋にいるのは二人。
組頭の政信と、番頭の清信。
書斎机を挟んで差し向かいに座る二人の間には、緊張の糸が張り詰めている。
「……見たろ、清信」
沈黙を破ったのは、政信だった。
彼は、手にした杯を弄びながら、静かに、だが確信に満ちた声で言う。
「祭りの時の、写楽の戦いぶりを。あいつは、化けるぞ」
「……確かに、目を見張るもんはあった。だがな、政信」
清信は、穏やかな、しかし諭すような口調で返す。
「早まるんじゃねえ。あいつが、お前の考えてる『器』かどうかは、まだ分からん」
政信が考えていること。それは、ウキヨ英士の奥義。魂をその身に纏い、本来の戦闘能力を解放する最終形態——『光筆単成』。
「まだ早い、か」
「ああ。あいつはまだ、この組に来て日も浅い。素性も知れねえ。それに、あの戦い方はあまりに危うすぎる。そんな奴に、光筆単成を授けるのは、あまりに危険な賭けだ」
清信の言葉は、正論だった。
かつて赤坂龍穴で起きた悲劇——若さゆえの判断が、取り返しのつかない結末を招いたあの日の記憶。
それが清信の心に深く刻まれ、彼を一層慎重にさせていた。
「だがな、清信」
政信は、杯に残っていた酒をぐいと飲み干すと、その鋭い眼光を清信に向けた。
「俺たちにはもう、時間がねえ。祭りの日に現れた惡魂の群れ。あれは、ただの始まりに過ぎねえ。これから、もっとでかいのが来る。その時、俺たちの手駒は、一枚でも多い方がいい」
政信の言葉に、清信はぐっと押し黙る。
「写楽は、規格外だ」
政信は続ける。
「北斎とも、歌麿とも、清長とも違う。あいつは、俺たちの常識が通用するような男じゃねえ。だからこそ、賭ける価値がある。あの型にはまらねえ戦い方が、あるいは、俺たちの誰も見たことのねえ景色を見せてくれるかもしれねえ」
その瞳には、博打打ちのような、危険な光が宿っていた。
清信は、深く、長い溜息をつくと、やれやれといったように首を振った。
「……お前がそこまで言うなら、俺はもう何も言わん」
「へっ、決まりだな」
政信は、満足そうに笑うと、工房にいる源内を呼び出した。
「源内。写楽に、魂の纏い方を教えてやれ」
その言葉は、写楽の、そして帝都の運命が、新たなステージへと進むことを告げる、静かな号砲だった。
だが、政信の旦那がそんな決断を下したことなど、俺は知る由もない。
三社祭での死闘を終えてからというもの、俺は焦っていた。
(……あの時の力は、なんだったんだ)
祭りの最中、惡魂を斬り伏せた、あの瞬間。
俺の龍輝筆刃は、これまでとは比べ物にならないほどの、眩い赤い光を放った。
相手の動きの「一瞬先」が見え、俺の体は無意識に、その急所を突いていた。
あの感覚。
あれこそが、俺が求める力の手がかりのはずだ。
だが、龍穴での稽古でいくら精神を集中させても、あの時の感覚は二度と戻ってこなかった。
刃は同じ赤色に光るものの、あの時のように、魂が燃えるような熱量はない。
(……くそっ! どうなってやがる!)
時間だけが、無情に過ぎていく。
焦れば焦るほど、龍輝は空回りし、刃は鈍る。
悪循環だ。
その日も、浮世組の車庫の片隅で一人荒い息をついていた。
(どうすりゃ、あの八首の龍を……)
考えがまとまらず頭をかきむしっていると、ぶっきらぼうに声をかけられた。
「おい、写楽。いつまでそんな所で油を売ってる」
声の主は、源内さんだった。
いつものよれよれの作業着姿で、腕を組み、呆れたような顔で俺を見下ろしている。
「源内さん……。いや、別に油を売ってたわけじゃ」
「フン、顔に書いてあるぜ。『俺は伸び悩んでます』ってな」
図星を突かれ、俺はぐっと言葉に詰まる。
「……うるせえよ」
「へっ、威勢だけは一人前だな」
源内さんは、やれやれといったように首を振ると、顎でくいと工房の方をしゃくった。
「まあ、いい。てめえに見せたいもんがある。工房に来な」
それだけ言うと、彼はさっさと俺に背を向けて歩き出してしまう。
俺は、そのぶっきらぼうな誘いに戸惑いながらも、彼の後を追った。
(見せたいもん、だと……?)
胸の奥で、何かがざわめく。
それは、焦りとは違う、新たな扉が開く予感。
ごくりと唾を飲み込み、源内さんの待つ工房へと、足早に向かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は7月25日(土)19時に更新予定です。




