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浮世英伝 ――大正ウキヨ英士伝――  作者: 本堂ポンタ


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3/5

北斎という名の壁

挿絵(By みてみん)

 翌日から浮世組での車夫見習いとしての日々が始まった。

 車夫の朝は早く、出車前の点検を終えると、昼間は広重に車夫の仕事のイロハを教わり、夜は疲労困憊で眠るだけ。

 騒々しくて、人間臭い日々。

 そんな毎日を繰り返す中で、俺は少しずつだが、この場所に馴染み始めていた。


 そんなある日の昼下がり、俺が車の手入れをしていると、政信の旦那がひょっこりと姿を現した。

「よう、写楽。精が出るじゃねえか」

「あっ、組頭……。ええ、まあ」

「てめえのその根性、気に入ったぜ。ちいとばかし、腕試しといくか」

 腕試し、という言葉に、俺は思わず眉をひそめる。

 政信の旦那はニヤリと笑うと、敷地の裏手にある空き地を顎でしゃくった。

 そこに立っていた男を見て、俺は息を呑む。

 体にぴったりと合った鯉口シャツに股引という、いなせな仕事着。

 だが、その鋭い眼光と、全身から発せられるただならぬ気配は、他の仲間たちとは一線を画していた。

 間違いない。あの時、応為の亡骸の前で出会った男。

 そして、たった一人で八首の龍に挑み、炎の中に消えていった、あの男——北斎。

 彼が、応為の兄……。俺がこの時代で、最初に出会うべきだった男。

 その周りには、仕事を終えた仲間たちが、興味深そうにこちらを見ている。

「おいおい、政信の旦那。こいつはまだ素人だぜ? 北斎相手じゃ、ちと分が悪すぎるんじゃねえか?」

 国芳が、面白そうに囃し立てる。

「あら、そうかしら? 私は見てみたいわ。あの子が、どこまでやれるのか」

 歌麿が、優雅に扇子を広げながら言った。

「規律を乱すような手合わせは感心しないが……組頭の命令とあらば仕方あるまい」

 清長は、腕を組んだまま、苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨んでいる。

(……完全に、見世物じゃねえか)

 苦笑する俺に、政信の旦那が木刀を放り投げた。

 受け取った腕に、ずしりとした重みが響く。

 木刀を構えると、向かい合った北斎との間に、張り詰めた空気が流れた。

 彼はただ静かに、木刀を中段に構えているだけだ。

 何の変哲もない構え。

 しかし、その切っ先が真っ直ぐに自分へ向けられた瞬間、俺は全身の産毛が逆立つような、凄まじい圧を感じた。

(……やばいな。なんだよこいつ、本気じゃねえか。車夫の腕試しってレベルじゃねえだろ、これ!)

 冷や汗が、俺の頬を伝う。

 あの日見た、八首の龍に挑んだ彼の剣。

 人の身で相手をするには、あまりにも規格外すぎる。

「始め!」

 政信の旦那の合図と同時に、北斎の姿が見えなくなる。

 次の瞬間には、彼の木刀が俺の喉元を寸前で捉えていた。

「——っ!」

 俺は、咄嗟に未来の記憶を呼び覚ます。

 ——あの時、八首の龍の爪を、奴はこうやっていなしてた!

 思考より早く、体が動く。

 最小限の動きで半身になり、木刀の切っ先を紙一重でかわす。

 空を切る木刀が、びゅう、と鋭い風切り音を立てた。

 北斎の目に、初めてわずかな驚きが浮かぶ。

 遠巻きに見ていた仲間たちからも、「おおっ!?」とどよめきが起こった。

「……何者だ、お前は」

 北斎の低い声が、俺に突き刺さる。

 俺は、荒い息を整えながら、にやりと笑ってみせた。

「ただの……未来を変えに来た男さ」

 その言葉の意味を、今の北斎が知る由もない。

 だが、その不敵な態度が彼の闘志に火をつけたのは確かだった。

 北斎の構えが、さらに深く、静かに研ぎ澄まされる。

 二人の男の視線が、火花を散らして交錯した。


 ——それから、どれほどの時間が経っただろうか。

 何度も、何度も、俺は北斎に打ち込み、そして、その度に赤子のようにあしらわれ、地面に叩きつけられた。

 結局、北斎との手合わせは、俺が一本も取れないまま終わった。

 全身痣だらけで、利き腕は痺れて感覚がない。

 だが、不思議と心は折れていなかった。

 むしろ、とんでもなく高い壁を前に、どうやってこれを乗り越えてやろうかと、心の奥底で静かな闘志が燃え上がっていた。

(……待ってろよ、北斎。必ず、お前に一太刀入れてやる)

 そんな決意を新たにしていると、ふと、敷地の向こうを歩く応為の姿が目に入った。

 俺がこの組に入ってから、まともに彼女と話せたことは一度もない。

 俺が声をかけようとすると、彼女はいつもぷいとそっぽを向いてしまう。

 未来での、あの気さくな笑顔はどこにもなかった。

(……まあ、当たり前か)

 今の彼女にとって、俺はただの素性の知れない新入りだ。

 もどかしいが、今は耐えるしかない。

 そう自分に言い聞かせていると、敷地の一角がやけに騒がしいことに気づいた。

 見ると、伊達男の歌麿が、自分の人力車に何やらきらびやかな房飾りを取り付けている。

 その隣では、黒猫の国芳が腹を抱えて笑っていた。

「がははっ! さすがは歌麿だな! あんたの車は、今日も一段と派手でいいぜ!」

「当然よ。美しくないものは、お客様の前に出せないもの。これも、わたくしなりのおもてなしの心なの」

 その、あまりにも自由なやり取りに、俺が呆気にとられていると、背後から氷のように冷たい声が響いた。

「浮ついた真似はそこまでにしろ」

 清長だ。

 腕を組み、仁王立ちで二人を睨みつけている。

「歌麿。その不要な装飾は規律を乱す。速やかに取り外せ。ここは仕事場であり、貴様の美学を発表する場ではない」

「あら、怖い顔。そんなんじゃ、せっかくの男前が台無しね」

 歌麿は、柳に風と受け流す。

 清長の視線が、今度は国芳へと移った。

「国芳。貴様もだ。その馬鹿でかい声は、客を驚かせ、ひいては浅草浮世組の品位を落とすことになる。慎むことを覚えろ」

「なんだよ、清長。ちいせえこと気にしてんじゃねえよ! 威勢がいいのが俺たちの取り柄だろうが!」

 一触即発。

 俺は思わずごくりと唾を飲んだ。

 だが、二人は清長の剣幕にも怯む様子はない。

「第一、そんな堅苦しいことばっかり言ってて、楽しいのかよ?」

「楽しむために仕事をしているわけではない。我々の使命は、規律を遵守し、任務を完遂すること。それ以上でも、それ以下でもない」

 清長の言葉は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。

 その時だった。

「まあまあ、お前さんたち。その辺にしといたらどうだ」

 穏やかで、しかし芯の通った声が、張り詰めた空気を和らげた。

 声のした方を見ると、落ち着いた風格の男が、やれやれといった顔でこちらを見ていた。

 浮世組の番頭を務める、清信さんだ。

「だが、清信さん。こいつらは……!」

「分かってるさ、清長。お前の言うことは、正しい。だがな」

 清信さんは、諭すように続けた。

「水が清すぎれば、魚は棲めねえ。ちったあ遊びがなけりゃあ、人も息が詰まっちまうってもんさ」

 その含蓄のある言葉に、清長はぐっと唇を噛んで押し黙った。

 歌麿と国芳は、ここぞとばかりに清信さんの後ろに隠れて、清長にべーっと舌を出している。

 俺は、その一連のやり取りを、ただ黙って見ていた。

(……なるほどな)

 清長のあの厳しさは、たぶん、この個性豊かな面々をまとめるために必要なものなんだろう。

 そして、歌麿や国芳のあの自由さと、それを大きな器で受け止める清信さん。

 ここは、ただ強いだけじゃない。

 バラバラで、めちゃくちゃで、それでいて、どこか不思議な絆で繋がっている。

(……面白い場所に来ちまったな)

 俺は、痣だらけの体で、思わずにやりと笑った。

 未来を変えるための戦いは、一筋縄ではいかない。

 だが、この仲間たちとなら、あるいは。

 そんな、淡い希望が、俺の胸に芽生え始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は4月12日(日)19時に更新予定です。

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