北斎という名の壁
翌日から浮世組での車夫見習いとしての日々が始まった。
車夫の朝は早く、出車前の点検を終えると、昼間は広重に車夫の仕事のイロハを教わり、夜は疲労困憊で眠るだけ。
騒々しくて、人間臭い日々。
そんな毎日を繰り返す中で、俺は少しずつだが、この場所に馴染み始めていた。
そんなある日の昼下がり、俺が車の手入れをしていると、政信の旦那がひょっこりと姿を現した。
「よう、写楽。精が出るじゃねえか」
「あっ、組頭……。ええ、まあ」
「てめえのその根性、気に入ったぜ。ちいとばかし、腕試しといくか」
腕試し、という言葉に、俺は思わず眉をひそめる。
政信の旦那はニヤリと笑うと、敷地の裏手にある空き地を顎でしゃくった。
そこに立っていた男を見て、俺は息を呑む。
体にぴったりと合った鯉口シャツに股引という、いなせな仕事着。
だが、その鋭い眼光と、全身から発せられるただならぬ気配は、他の仲間たちとは一線を画していた。
間違いない。あの時、応為の亡骸の前で出会った男。
そして、たった一人で八首の龍に挑み、炎の中に消えていった、あの男——北斎。
彼が、応為の兄……。俺がこの時代で、最初に出会うべきだった男。
その周りには、仕事を終えた仲間たちが、興味深そうにこちらを見ている。
「おいおい、政信の旦那。こいつはまだ素人だぜ? 北斎相手じゃ、ちと分が悪すぎるんじゃねえか?」
国芳が、面白そうに囃し立てる。
「あら、そうかしら? 私は見てみたいわ。あの子が、どこまでやれるのか」
歌麿が、優雅に扇子を広げながら言った。
「規律を乱すような手合わせは感心しないが……組頭の命令とあらば仕方あるまい」
清長は、腕を組んだまま、苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨んでいる。
(……完全に、見世物じゃねえか)
苦笑する俺に、政信の旦那が木刀を放り投げた。
受け取った腕に、ずしりとした重みが響く。
木刀を構えると、向かい合った北斎との間に、張り詰めた空気が流れた。
彼はただ静かに、木刀を中段に構えているだけだ。
何の変哲もない構え。
しかし、その切っ先が真っ直ぐに自分へ向けられた瞬間、俺は全身の産毛が逆立つような、凄まじい圧を感じた。
(……やばいな。なんだよこいつ、本気じゃねえか。車夫の腕試しってレベルじゃねえだろ、これ!)
冷や汗が、俺の頬を伝う。
あの日見た、八首の龍に挑んだ彼の剣。
人の身で相手をするには、あまりにも規格外すぎる。
「始め!」
政信の旦那の合図と同時に、北斎の姿が見えなくなる。
次の瞬間には、彼の木刀が俺の喉元を寸前で捉えていた。
「——っ!」
俺は、咄嗟に未来の記憶を呼び覚ます。
——あの時、八首の龍の爪を、奴はこうやっていなしてた!
思考より早く、体が動く。
最小限の動きで半身になり、木刀の切っ先を紙一重でかわす。
空を切る木刀が、びゅう、と鋭い風切り音を立てた。
北斎の目に、初めてわずかな驚きが浮かぶ。
遠巻きに見ていた仲間たちからも、「おおっ!?」とどよめきが起こった。
「……何者だ、お前は」
北斎の低い声が、俺に突き刺さる。
俺は、荒い息を整えながら、にやりと笑ってみせた。
「ただの……未来を変えに来た男さ」
その言葉の意味を、今の北斎が知る由もない。
だが、その不敵な態度が彼の闘志に火をつけたのは確かだった。
北斎の構えが、さらに深く、静かに研ぎ澄まされる。
二人の男の視線が、火花を散らして交錯した。
——それから、どれほどの時間が経っただろうか。
何度も、何度も、俺は北斎に打ち込み、そして、その度に赤子のようにあしらわれ、地面に叩きつけられた。
結局、北斎との手合わせは、俺が一本も取れないまま終わった。
全身痣だらけで、利き腕は痺れて感覚がない。
だが、不思議と心は折れていなかった。
むしろ、とんでもなく高い壁を前に、どうやってこれを乗り越えてやろうかと、心の奥底で静かな闘志が燃え上がっていた。
(……待ってろよ、北斎。必ず、お前に一太刀入れてやる)
そんな決意を新たにしていると、ふと、敷地の向こうを歩く応為の姿が目に入った。
俺がこの組に入ってから、まともに彼女と話せたことは一度もない。
俺が声をかけようとすると、彼女はいつもぷいとそっぽを向いてしまう。
未来での、あの気さくな笑顔はどこにもなかった。
(……まあ、当たり前か)
今の彼女にとって、俺はただの素性の知れない新入りだ。
もどかしいが、今は耐えるしかない。
そう自分に言い聞かせていると、敷地の一角がやけに騒がしいことに気づいた。
見ると、伊達男の歌麿が、自分の人力車に何やらきらびやかな房飾りを取り付けている。
その隣では、黒猫の国芳が腹を抱えて笑っていた。
「がははっ! さすがは歌麿だな! あんたの車は、今日も一段と派手でいいぜ!」
「当然よ。美しくないものは、お客様の前に出せないもの。これも、わたくしなりのおもてなしの心なの」
その、あまりにも自由なやり取りに、俺が呆気にとられていると、背後から氷のように冷たい声が響いた。
「浮ついた真似はそこまでにしろ」
清長だ。
腕を組み、仁王立ちで二人を睨みつけている。
「歌麿。その不要な装飾は規律を乱す。速やかに取り外せ。ここは仕事場であり、貴様の美学を発表する場ではない」
「あら、怖い顔。そんなんじゃ、せっかくの男前が台無しね」
歌麿は、柳に風と受け流す。
清長の視線が、今度は国芳へと移った。
「国芳。貴様もだ。その馬鹿でかい声は、客を驚かせ、ひいては浅草浮世組の品位を落とすことになる。慎むことを覚えろ」
「なんだよ、清長。ちいせえこと気にしてんじゃねえよ! 威勢がいいのが俺たちの取り柄だろうが!」
一触即発。
俺は思わずごくりと唾を飲んだ。
だが、二人は清長の剣幕にも怯む様子はない。
「第一、そんな堅苦しいことばっかり言ってて、楽しいのかよ?」
「楽しむために仕事をしているわけではない。我々の使命は、規律を遵守し、任務を完遂すること。それ以上でも、それ以下でもない」
清長の言葉は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。
その時だった。
「まあまあ、お前さんたち。その辺にしといたらどうだ」
穏やかで、しかし芯の通った声が、張り詰めた空気を和らげた。
声のした方を見ると、落ち着いた風格の男が、やれやれといった顔でこちらを見ていた。
浮世組の番頭を務める、清信さんだ。
「だが、清信さん。こいつらは……!」
「分かってるさ、清長。お前の言うことは、正しい。だがな」
清信さんは、諭すように続けた。
「水が清すぎれば、魚は棲めねえ。ちったあ遊びがなけりゃあ、人も息が詰まっちまうってもんさ」
その含蓄のある言葉に、清長はぐっと唇を噛んで押し黙った。
歌麿と国芳は、ここぞとばかりに清信さんの後ろに隠れて、清長にべーっと舌を出している。
俺は、その一連のやり取りを、ただ黙って見ていた。
(……なるほどな)
清長のあの厳しさは、たぶん、この個性豊かな面々をまとめるために必要なものなんだろう。
そして、歌麿や国芳のあの自由さと、それを大きな器で受け止める清信さん。
ここは、ただ強いだけじゃない。
バラバラで、めちゃくちゃで、それでいて、どこか不思議な絆で繋がっている。
(……面白い場所に来ちまったな)
俺は、痣だらけの体で、思わずにやりと笑った。
未来を変えるための戦いは、一筋縄ではいかない。
だが、この仲間たちとなら、あるいは。
そんな、淡い希望が、俺の胸に芽生え始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は4月12日(日)19時に更新予定です。




