見習い車夫、写楽誕生
隅田川の川面に反射した夜明けの光が、俺の瞼を遠慮なく突き刺す。
昨日、誓いを立てた俺は、あてもなく街を彷徨い、気づけば初めて応為と出会った川沿いにある土手の石段で、力尽きるように眠ってしまっていた。
(四月って、こんなに寒かったっけか?)
春になれば暖かくなるもんだと思っていたが、夜明けの川風はまだ刺すように冷たい。
容赦なく体温を奪っていくその冷気は、まるでおめでたい俺の頭を冷やそうとしているかのようだった。
花冷えの朝に芯まで冷え切った体には、空腹の痛みさえも鈍く響く。
(……腹が、減ったな)
あまりにも即物的で、我ながら情けない。
破滅の未来を変えるという壮大な決意も、空腹の前では形無しだ。
「さて、どうしたものか……」
独りごちながら、ふらつく足で大通りへと出る。
朝の浅草は、すでに活気に満ち溢れていた。
新聞売りの少年が威勢のいい声を張り上げ、豆腐屋のラッパがどこからか聞こえてくる。
朝日を浴びて輝く仲見世通りを、勤め人や学生たちが忙しそうに行き交う。
でも、その平和な光景が、俺の胸を締め付ける。
五ヶ月後、この笑顔も、この活気も、すべてが炎に飲まれてしまうことを俺は知っている……
(感傷に浸っている場合じゃねーな)
俺は、ぐっと腹に力を込めた。
まずは、この時代で生き抜くための術を見つけなければならない。
そして、応為を探し出し、彼女を守る足がかりを掴むのだ。
腹の虫が限界を知らせ始めた頃、一軒の団子屋の店先から漂う、甘く香ばしい匂いに足が止まった。
店先の縁台では、法被を着た男たちが威勢よく茶をすすっていた。
「おう、聞いたか? また浮世組が新しい車を仕入れたらしいぜ」
「へえ、羽振りがいいじゃねえか。さすがは浅草一の人力車屋だな」
その会話に、俺の耳がぴくりと動く。
人力車屋。
そうか、その手があったか。体力には自信がある。
客を乗せて町を走れば、様々な情報が手に入るかもしれない。
何より、車夫をしてる応為の兄貴にも会えるかもしれない!
俺は、男たちに何気ないふうを装って話しかけた。
「へえ、景気のいい車屋だね。その『浮世組』ってのは、どこにあるんだい?」
男の一人が、湯呑みを片手ににやりと笑う。
「なんだい兄ちゃん、浮世組を知らねえのか? 浅草寺の裏手に拠点を構えてる、この辺りで一番の車屋よ。腕も気風も一流の車夫しかいねえって評判だ」
「ちげえねえ。それに、あそこの紅一点なんざ、男顔負けの健脚でなあ。確か……同じ組の北斎とかいう、腕利きの車夫の妹御だったか」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。
(北斎? 妹……!?)
「あたしさ、兄貴に憧れて、浅草で人力車を引いてるんだ」
照れくさそうに笑った応為の横顔が、今になって蘇る。
あのときは、ただの世間話だと思っていた。
——その“兄”が、まさか。
胸の奥が、わずかにざわついた。
「……兄さん?」
怪訝な顔をする男たちに、俺は慌てて愛想笑いを浮かべた。
「いやあ、ごめん、ごめん! 実は田舎から出てきたばかりで、仕事を探してたもんでさ。ちなみに、俺腕っぷしには自信があるんだけど、その浮世組ってのは、人手足りてるんかね?」
「そりゃあ、いつでも腕のいい奴は探しちゃいるだろうが……あんた、車夫の経験はあるのかい? 世の中素人を雇うほど甘かねえぜ」
男たちの忠告も、今の俺には火に油を注ぐだけ。
これ以上ない手がかりだ。
まずは、あの組に入り込む。それが、未来を変えるための第一歩だ。
俺は男たちに礼を言うと、教えられた浅草寺の裏手へと、逸る心を抑えながら向かった。
行き交う人に道を尋ねつつ進んだ俺の前に、やがて大きな木の門構えが現れた。
門の上には、「浅草 浮世組」と書かれた、力強い筆文字の看板。
ここだ。
俺は、ごくりと唾を飲み込み、首にかけた鏡のペンダントを力強く握りしめた。
決意を固めた瞳で、看板をもう一度見据える。
——そして、門をくぐる。
そこには汗と鉄の匂いが入り混じる、男たちの仕事場が広がっていた。
「たのもう!!」
腹の底から張り上げた声に、敷地にいた者たちの視線が一斉に突き刺さる。
精悍な顔つきの青年が手を止め、俺を鋭く睨みつけてきた。
その場の空気にのまれかけた、そのとき——
俺と同じ背丈ほどもある黒猫が、二足で目の前に立っていた。
ニヤリと笑い、口を開く。
「おう、威勢のいいのが来たじゃねえか!」
(……なんだ、この場所は)
あまりにも個性が強すぎる面々に圧倒されていると、あの精悍な顔つきの青年が、氷のように冷たい声で俺の前に立ちはだかった。
「貴様、何者だ。部外者の立ち入りは禁じられている。速やかに立ち去れ」
「……腕に覚えがある。ここで働かせてもらえねえかと思ってな」
俺が臆することなくそう告げると、青年の眉がぴくりと動く。
「ここは、お前のような素性の知れん者が居る場所ではない!」
彼が、追い払うために一歩踏み出した、その時だった。
「おやおや、清長。声を荒げて物騒だねぇ。何事だい」
凛とした、涼やかな声が割って入った。
声のした方へ目を向けると、伊達男と呼ぶにふさわしい、優雅な佇まいの男が立っていた。
「歌麿! ……俺は、ただ浮世組の規律に則って、その男に忠告したまでだ」
清長と呼ばれた男が、忌々しげに答える。
「あら、怖い顔。そんなんじゃ、せっかくの男前が台無しね」
歌麿と呼ばれた男がくすくすと笑うと、清長は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
その時、歌麿の後ろから、昼行灯を絵に描いたような男が頭をかきながら顔を出す。
「なんだ、騒々しい……」
その声に、黒猫の男が、待ってましたとばかりに大声を張り上げる。
「うちで働きたいんだとさ! 政信の旦那!」
でかい黒猫の言葉で、この人が組頭の政信だと知る。
「ほう、お前さん。……うちで働きたいだなんて面白ぇ奴だな」
政信の旦那は、俺の前に立つと、その鋭い眼光で、頭のてっぺんから爪先までをじろりと舐めるように見た。
まるで、魂の奥底まで見透かされているようで、背中に嫌な汗が流れる。
「名は?」
「……写楽だ」
「写楽、ねえ。ずいぶんと威勢がいいじゃねえか。車夫の経験は?」
「ねえ。だが、体力と根性には自信がある」
俺の答えに、政信の旦那はふっと口の端を吊り上げる。
彼は何も言わず、俺の周りをゆっくりと歩き、手のひら、立ち姿、そして瞳の奥を、品定めするように観察する。
誰もが固唾を飲んで見守る、その沈黙。
やがて、政信の旦那は俺の正面に再び立つと、にやりと笑った。
「……面白い。その根性、俺が買ってやる」
その言葉に、歌麿が驚いたように声を上げた。
「あら、旦那様が即決なんて珍しい。この子、何か持ってるのかしらね」
「よし、写楽! てめえを今日から、ここの見習い車夫として雇ってやる。せいぜい、先輩たちにしごかれて、一人前になるんだな!」
その言葉を待っていたかのように、黒猫が俺の肩を叩く。
「俺は、国芳ってんだ。よろしくな!」
不意に背後からも、落ち着いた声がかけられた。
「……写楽」
振り返ると、そこにいたのは、俺より少し年下であろう、生真面目そうな顔立ちの青年。
「俺は広重だ。よろしく頼む」
「……広重さんね。よろしく」
広重と名乗った彼は、俺に向かって深々と頭を下げた。
その実直な態度に、俺は少し面食らう。
北斎や応為を見つけられず少し不安にもなったが、浮世組の一員になり、未来を変えるための一歩を踏み出せたことに喜びを隠せなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は4月8日(水)19時に更新予定です。




