表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浮世英伝 ――大正ウキヨ英士伝――  作者: 本堂ポンタ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

見習い車夫、写楽誕生

挿絵(By みてみん)

 隅田川の川面に反射した夜明けの光が、俺の瞼を遠慮なく突き刺す。

 昨日、誓いを立てた俺は、あてもなく街を彷徨い、気づけば初めて応為と出会った川沿いにある土手の石段で、力尽きるように眠ってしまっていた。

(四月って、こんなに寒かったっけか?)

 春になれば暖かくなるもんだと思っていたが、夜明けの川風はまだ刺すように冷たい。

 容赦なく体温を奪っていくその冷気は、まるでおめでたい俺の頭を冷やそうとしているかのようだった。

 花冷えの朝に芯まで冷え切った体には、空腹の痛みさえも鈍く響く。

(……腹が、減ったな)

 あまりにも即物的で、我ながら情けない。

 破滅の未来を変えるという壮大な決意も、空腹の前では形無しだ。

「さて、どうしたものか……」

 独りごちながら、ふらつく足で大通りへと出る。

 朝の浅草は、すでに活気に満ち溢れていた。

 新聞売りの少年が威勢のいい声を張り上げ、豆腐屋のラッパがどこからか聞こえてくる。

 朝日を浴びて輝く仲見世通りを、勤め人や学生たちが忙しそうに行き交う。

 でも、その平和な光景が、俺の胸を締め付ける。

 五ヶ月後、この笑顔も、この活気も、すべてが炎に飲まれてしまうことを俺は知っている……

(感傷に浸っている場合じゃねーな)

 俺は、ぐっと腹に力を込めた。

 まずは、この時代で生き抜くための術を見つけなければならない。

 そして、応為を探し出し、彼女を守る足がかりを掴むのだ。


 腹の虫が限界を知らせ始めた頃、一軒の団子屋の店先から漂う、甘く香ばしい匂いに足が止まった。

 店先の縁台では、法被を着た男たちが威勢よく茶をすすっていた。

「おう、聞いたか? また浮世組が新しい車を仕入れたらしいぜ」

「へえ、羽振りがいいじゃねえか。さすがは浅草一の人力車屋だな」

 その会話に、俺の耳がぴくりと動く。

 人力車屋。

 そうか、その手があったか。体力には自信がある。

 客を乗せて町を走れば、様々な情報が手に入るかもしれない。

 何より、車夫をしてる応為の兄貴にも会えるかもしれない!

 俺は、男たちに何気ないふうを装って話しかけた。

「へえ、景気のいい車屋だね。その『浮世組』ってのは、どこにあるんだい?」

 男の一人が、湯呑みを片手ににやりと笑う。

「なんだい兄ちゃん、浮世組を知らねえのか? 浅草寺の裏手に拠点を構えてる、この辺りで一番の車屋よ。腕も気風も一流の車夫しかいねえって評判だ」

「ちげえねえ。それに、あそこの紅一点なんざ、男顔負けの健脚でなあ。確か……同じ組の北斎とかいう、腕利きの車夫の妹御だったか」

 その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。

(北斎? 妹……!?)


「あたしさ、兄貴に憧れて、浅草で人力車を引いてるんだ」


 照れくさそうに笑った応為の横顔が、今になって蘇る。

 あのときは、ただの世間話だと思っていた。

 ——その“兄”が、まさか。

 胸の奥が、わずかにざわついた。

「……兄さん?」

 怪訝な顔をする男たちに、俺は慌てて愛想笑いを浮かべた。

「いやあ、ごめん、ごめん! 実は田舎から出てきたばかりで、仕事を探してたもんでさ。ちなみに、俺腕っぷしには自信があるんだけど、その浮世組ってのは、人手足りてるんかね?」

「そりゃあ、いつでも腕のいい奴は探しちゃいるだろうが……あんた、車夫の経験はあるのかい? 世の中素人を雇うほど甘かねえぜ」

 男たちの忠告も、今の俺には火に油を注ぐだけ。

 これ以上ない手がかりだ。

 まずは、あの組に入り込む。それが、未来を変えるための第一歩だ。

 俺は男たちに礼を言うと、教えられた浅草寺の裏手へと、逸る心を抑えながら向かった。


 行き交う人に道を尋ねつつ進んだ俺の前に、やがて大きな木の門構えが現れた。

 門の上には、「浅草 浮世組」と書かれた、力強い筆文字の看板。

 ここだ。

 俺は、ごくりと唾を飲み込み、首にかけた鏡のペンダントを力強く握りしめた。

 決意を固めた瞳で、看板をもう一度見据える。

 ——そして、門をくぐる。

 そこには汗と鉄の匂いが入り混じる、男たちの仕事場が広がっていた。

「たのもう!!」

 腹の底から張り上げた声に、敷地にいた者たちの視線が一斉に突き刺さる。

 精悍な顔つきの青年が手を止め、俺を鋭く睨みつけてきた。

 その場の空気にのまれかけた、そのとき——

 俺と同じ背丈ほどもある黒猫が、二足で目の前に立っていた。

 ニヤリと笑い、口を開く。

「おう、威勢のいいのが来たじゃねえか!」

(……なんだ、この場所は)

 あまりにも個性が強すぎる面々に圧倒されていると、あの精悍な顔つきの青年が、氷のように冷たい声で俺の前に立ちはだかった。

「貴様、何者だ。部外者の立ち入りは禁じられている。速やかに立ち去れ」

「……腕に覚えがある。ここで働かせてもらえねえかと思ってな」

 俺が臆することなくそう告げると、青年の眉がぴくりと動く。

「ここは、お前のような素性の知れん者が居る場所ではない!」

 彼が、追い払うために一歩踏み出した、その時だった。

「おやおや、清長。声を荒げて物騒だねぇ。何事だい」

 凛とした、涼やかな声が割って入った。

 声のした方へ目を向けると、伊達男と呼ぶにふさわしい、優雅な佇まいの男が立っていた。

「歌麿! ……俺は、ただ浮世組の規律に則って、その男に忠告したまでだ」

 清長と呼ばれた男が、忌々しげに答える。

「あら、怖い顔。そんなんじゃ、せっかくの男前が台無しね」

 歌麿と呼ばれた男がくすくすと笑うと、清長は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。

 その時、歌麿の後ろから、昼行灯を絵に描いたような男が頭をかきながら顔を出す。

「なんだ、騒々しい……」

 その声に、黒猫の男が、待ってましたとばかりに大声を張り上げる。

「うちで働きたいんだとさ! 政信の旦那!」

 でかい黒猫の言葉で、この人が組頭の政信だと知る。

「ほう、お前さん。……うちで働きたいだなんて面白ぇ奴だな」

 政信の旦那は、俺の前に立つと、その鋭い眼光で、頭のてっぺんから爪先までをじろりと舐めるように見た。

 まるで、魂の奥底まで見透かされているようで、背中に嫌な汗が流れる。

「名は?」

「……写楽だ」

「写楽、ねえ。ずいぶんと威勢がいいじゃねえか。車夫の経験は?」

「ねえ。だが、体力と根性には自信がある」

 俺の答えに、政信の旦那はふっと口の端を吊り上げる。

 彼は何も言わず、俺の周りをゆっくりと歩き、手のひら、立ち姿、そして瞳の奥を、品定めするように観察する。

 誰もが固唾を飲んで見守る、その沈黙。

 やがて、政信の旦那は俺の正面に再び立つと、にやりと笑った。

「……面白い。その根性、俺が買ってやる」

 その言葉に、歌麿が驚いたように声を上げた。

「あら、旦那様が即決なんて珍しい。この子、何か持ってるのかしらね」

「よし、写楽! てめえを今日から、ここの見習い車夫として雇ってやる。せいぜい、先輩たちにしごかれて、一人前になるんだな!」

 その言葉を待っていたかのように、黒猫が俺の肩を叩く。

「俺は、国芳ってんだ。よろしくな!」

 不意に背後からも、落ち着いた声がかけられた。

「……写楽」

 振り返ると、そこにいたのは、俺より少し年下であろう、生真面目そうな顔立ちの青年。

「俺は広重だ。よろしく頼む」

「……広重さんね。よろしく」

 広重と名乗った彼は、俺に向かって深々と頭を下げた。

 その実直な態度に、俺は少し面食らう。

 北斎や応為を見つけられず少し不安にもなったが、浮世組の一員になり、未来を変えるための一歩を踏み出せたことに喜びを隠せなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は4月8日(水)19時に更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ