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浮世英伝 ――大正ウキヨ英士伝――  作者: 本堂ポンタ


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4/5

孤独を包む温もり

挿絵(By みてみん)

 北斎との最初の手合わせから、数日が過ぎた。

 政信の旦那の指示で、北斎との稽古は日課となっていた。

 来る日も来る日も、俺はただひたすらに木刀を振るい、そして容赦なく叩きのめされる。その繰り返し。

 全身に刻まれた痣は増える一方で、一向に縮まらない実力差に、焦りと苛立ちが心の奥で渦巻いていた。

(……この程度じゃ、話にもならねえ)

 未来を変えるどころか、俺はまだ、スタートラインにすら立てていない。

 その日も、稽古で泥だらけになった俺は一人、井戸端で腕の痣に水をかけていた。

「おい、写楽」

 不意に声をかけられ、顔を上げる。政信の旦那が、腕を組んで俺を見下ろしていた。

 その隣には、なんとも言えない、気まずそうな顔をした応為が立っている。

「組頭……」

「そんなことしても、傷は治らん。応為、そいつの手当てをしてやれ」

「なっ……! なんであたしが、こんな奴の!」

 政信の旦那の言葉に、応為が素っ頓狂な声を上げる。

 その反応は無理もなかった。

 俺と彼女は、まだまともに口を利いたことすらないのだから。

「てめえ、薬箱の場所くらいは分かるだろうが。こいつは大事な戦力だ。動けなくなっちゃ、ちと困るんでな」

「でも……!」

「いいから、早くやれ」

 政信の旦那の、有無を言わさぬ一言に、応為はぐっと唇を噛んで押し黙った。

 そして、俺を忌々しげに一瞥すると、乱暴な足取りで建物の中へと消えていく。

(……気まずいこと、この上ねえな)

 やがて、薬箱を持ってきた応為に促され、俺は縁側に腰を下ろした。

 彼女は俺の隣に無言で座ると、手ぬぐいを水で濡らし、乱暴な手つきで俺の腕の汚れを拭い始めた。

「……っ!」

 痣に滲みる水の冷たさと、消毒薬の匂い。

 気まずい沈黙が、じわりと場に広がる。

 応為が、口を開いた。

「……あんた、一体何者なんだい?」

 低い、探るような声だった。

 俺は、思わず彼女の方を見る。

 その真剣な眼差しは、もう俺から逸らされることはなかった。

「ただの車夫見習いじゃないだろ? 兄貴と初めて手合わせして、あんな動き……普通じゃないよ」

 核心を突く問いに、俺の心臓がどくりと鳴る。

 言えるはずがない。

 未来から来たなんて。

 お前が目の前で死ぬのを、一度見届けたなんて。

「……さあな。田舎で、ちいとばかし道場の真似事をしてただけさ」

 俺は、おどけるように笑ってみせた。

 だが、応為の瞳は、笑ってはいなかった。

「ふうん……。言う気がないなら、いいさ」

 彼女は、それ以上は追及してこなかった。

 ただ、黙々と俺の腕に薬を塗り、器用な手つきで包帯を巻いていく。

 その横顔は、何かを考えているようで、

 花火大会で出会った、あの気さくで、よく笑う彼女はどこにもいない。

 今の俺と彼女の間には、決して越えることのできない「五ヶ月」という時間の壁が、残酷なまでに横たわっていた。

「……よし、終わったよ」

 包帯を巻き終えた応為が、ぽつりと言った。

「……悪かったな。助かったぜ」

「別に。組頭の命令だからね」

 彼女は、ぷいとそっぽを向くと、薬箱を持ってさっさと立ち去ってしまった。

 一人残された俺は、巻かれたばかりの包帯に、そっと触れる。

 そこにはまだ、彼女の温もりが、微かに残っているような気がした。

(……今は、これでいい)

 今はまだ、ただの胡散臭い新入りだ。

 だが、お前が死なない平和な日々を、必ず取り戻してみせる。

 俺は、固く拳を握りしめた。

 その拳に刻まれた痣の痛みが、俺にその誓いを忘れるなと、強く訴えかけていた。


 その日の仕事が終わり、浮世組の車庫に戻ると、どこからともなく甘く香ばしい匂いが漂ってきた。

 見ると、敷地の一角に集まった仲間たちが、縁台に腰掛けて団子を頬張っている。

「おう、写楽! お前もひとつどうだ?」

 俺の姿を見つけた国芳が、串に刺さった団子を高く掲げて叫んだ。

 その隣では、広重が

「今日の分は十分稼いだんだから、もういいだろ。遠慮することはない」

 と、生真面目な顔で俺を手招きしている。

「へへっ、そいつはごちそうになりやす」

 俺は、照れ隠しに頭を掻きながら、その輪に加わった。

 差し出された団子を一口食べると、優しい甘さが、疲れた体にじんわりと沁み渡る。

「しかし、今日の客は大変だったな。銀座まで行けだなんて」

「まったくだ。おかげで足が棒になっちまったぜ」

 広重と国芳が、今日の仕事の愚痴をこぼしながら笑い合っている。

 俺もそれに相槌を打ちながら、熱い茶をすする。

(……いいもんだな、こういうのも)

 仲間との他愛もない時間。

 それが、こんなにも温かく、かけがえのないものだったなんて。

 心の底から、そう思った。

 その時、ふと、少し離れた場所で兄の北斎と話している応為の姿が目に入る。

「だからさ、兄貴。今度の休み、活動写真観るの付き合ってよ」

「……断る。俺は忙しい」

「ちぇっ、相変わらず付き合いの悪い兄貴だね!」

 ぷう、と頬を膨らませる応為。

 その姿は、俺が知っている、気さくな彼女そのものだった。

 北斎も、口ではぶっきらぼうに言いながらも、その横顔はどこか優しげに見える。

 平和な、日常の光景。

 誰もが笑い、明日が来ることを疑っていない。

 だが、その温かい光景が、俺だけが知る未来の残酷さを際立たせ、胸に鉛のように重く沈んだ。

(……俺だけが、知っている)

 この笑顔が、この日常が、あと数ヶ月で跡形もなく消え去ることを。

 仲間たちの笑い声が、急に遠くに聞こえる。

 俺は、この輪の中にいるようで、本当は一人もいない。

 誰にも言えない秘密を抱え、たった一人で、この偽りの平和の中に立っている。

 ずきり、と胸の奥が痛んだ。

 それは、未来を知る者だけが味わう、どうしようもない孤独の痛み。

「……どうした、写楽? 団子が喉に詰まったか?」

 俺が黙り込んでいるのに気づいた広重が、心配そうに声をかけてくる。

「……いや、なんでもねえよ」

 俺は、無理やり笑顔を作って見せた。

 そして、残りの団子を一口で飲み込むと、ぎゅっと、拳を握りしめる。

 そうだ。感傷に浸っている場合じゃない。

 この温かい場所を、この仲間たちの笑顔を、守るために俺はここにいる。

 そのためなら、どんな孤独にも耐えてみせる。

 俺は、心の中で誓い、仕事に戻った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は4月15日(水)19時に更新予定です。

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