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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ


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熱狂の死角

挿絵(By みてみん)

 担ぎ手たちは一斉に姿勢を正すと、続いて出発の一本締めが始まる。

「いよーっ!」

 シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン!

 拍子木と手拍子が揃い、鋭く空気を震わせる。

 歓声が一気に爆発した。

「おりゃぁーっ!」

 まるで雷鳴のように、浅草の街全体が震え、祭りの魂が目覚める瞬間だった。

 宮神輿がゆっくりと持ち上げられ、地面から離れる瞬間、まるで神々が街を見下ろすかのような荘厳な空気が辺りを包んだ。

 一本締めの余韻がまだ耳に残る中、神輿は俺たちの肩に乗り、浅草の街を練り歩くための第一歩を踏み出す。

「行くぜ、てめえら!」

 国芳が、雄叫びを上げる。俺たちは、その声を合図に、熱狂の渦の中へと駆け出していった。

 誰からともなく

「セイヤッ! セイヤッ!」

 と掛け声が上がり、徐々にその声は一つに重なり合う。

 ずしり、と肩に食い込む神輿の重み。

 人の熱気と汗の匂い。

 そして、腹の底まで震わせるような担ぎ手の掛け声。

 その全てが、俺にとって初めての体験だった。

 神輿は、まるで意思を持った巨大な生き物だ。

 俺たち担ぎ手の足並みが少しでも乱れれば、その巨体はたちまちバランスを崩し、牙を剥く。

「オラァ! 足止めんじゃねえぞ、浮世組!」

 隣で神輿を担ぐ豊国さんが、獰猛な笑みを浮かべて叫ぶ。

「そっちこそ、へばってんじゃないわよ、龍人会!」

 負けじと歌麿が言い返す。

 普段は張り合うこともある二つの組が、今日ばかりは一つの巨大な生き物を動かすために、必死に呼吸を合わせていた。

「右に寄せるぞ! 歩幅を合わせろ!」

 清長の的確な指示が、喧騒の中でもよく通る。

「おうともよ! 任せておけって! 清長さんよぉ!」

 国芳が軽口を叩き応える。

 一方、歌川龍人会の頭領である豊春さんも、まるで人が変わったかのように檄を飛ばす。

「国貞ぁ! 広重ぇ! 声が出てねえぞ!! 気合入れろ!」

「気合だぁぁぁぁっ!」

「セイヤァッ!」

 国貞と広重が威勢よく声を上げると、その後ろにいた豊広さんが

「ははは。二人とも、今日も全力だな」

 と飄々とした声で笑った。

 北斎は、何も言わない。

 しかし、その鋭い視線は常に神輿の行く先を見据えていた。

 俺が少し体勢を崩しかけると、背後から無言で担ぎ棒を押し上げ、支えてくれる。

 多くは語らないが、そんな無言のサポートが、何よりも心強かった。

(……いいな)

 隣で肩を並べる仲間たちの体温。

 汗が滝のように流れるが、不思議と苦しくはなかった。

 沿道から送られる人々の熱狂的な声援は、生命力に満ち溢れた空気となり、この街全体を包み込む。

 これが、俺が未来で失った「日常」の温かさ。

 だが、突然脳裏に、あの日の、あの灰色の光景が横切る。

 応為の冷たくなった体。八首の龍が吐いた炎に消えていった北斎。

(……もう、あんなことは二度とご免だ)

 俺は、歯を食いしばり、担ぎ棒を握る手に、さらに力を込めた。

 この肩に食い込む重みは、ただの神輿の重さじゃない。

 未来を変えるという、俺の覚悟の重さだ。

「セイヤッ! セイヤッ! セイヤッ! セイヤッ!」

 俺は、腹の底から声を張り上げた。

 仲間たちの声と、街の声援が、一つに重なり合っていく。

 この仲間たちと共に、必ず未来を掴んでみせる。

 俺は、熱狂の渦の中で、強く、強くそう誓った。


「セイヤッ! セイヤッ! セイヤッ! セイヤッ!」

 俺は無心で神輿を担ぎ続けた。

 担ぎ手たちの威勢のいい掛け声と、沿道の人々の笑顔が街中に溢れる。

 しかし、穏やかな時間は、そう長くは続かなかった。

 祭りが最高潮に達した、その瞬間だった。

 それまで俺たちを包んでいた温かい空気が、一瞬にして凍り付く。

 肌を刺すような、悪寒。

(……なんだ、この感じは……)

 それは、これまで感じたことのない規模の、広範囲にわたる邪気だった。

 俺だけじゃない。

 神輿を担いでいたウキヨ英士の仲間たち全員が、その異変を察知していた。

 それまで騒いでいた豊国さんや国芳の表情から笑みが消え、鋭い戦士の顔つきに変わる。

「……野暮な奴らだ」

 神輿の先頭を担いでいた豊春さんが、静かに、だが心の底からの怒りを滲ませて呟いた。

「祭りの邪魔させんじゃねえぞ、オラァ!」

 豊国さんが、獣のような低い唸り声を上げる。

 邪気は、この祭りの喧騒から少し離れた、人目につかない裏路地の方角から漂ってきていた。

 豊春さんと、俺たちの後ろで神輿を担いでいた清長が、無言で目配せを交わす。

 次の瞬間、清長が俺たち浮世組のメンバーにだけ聞こえるよう、低い声で指示を飛ばした。

「北斎、写楽、歌麿。神輿から抜けるぞ。応為はこのまま残るんだ」

 同時に、豊春さんも龍人会のメンバーに短い指示を送っていたのだろう。

 俺たちは、祭りの熱狂に水を差さぬよう、ごく自然な動きで神輿の担ぎ手を他の男たちに交代すると、一人、また一人と、音もなくその場を離脱していく。

「写楽、遅れるなよ」

 北斎の静かな声に背中を押され、俺は仲間たちの後を追った。

 祭りの喧騒が、急速に背後へと遠ざかっていく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は7月8日(水)19時に更新予定です。

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