祭りと喧嘩は江戸の華
五月。
帝都が一年で最も熱気に包まれる、三社祭の季節がやってきた。
街のあちこちには祭提灯が飾られ、どこからともなく聞こえてくる祭り囃子の練習の音が、人々の心を浮き立たせている。
そんなある日の稽古後。
俺が龍穴で一人、汗だくになって木刀を振っていると、突然後ろから騒がしい声が響いた。
「よお、写楽! 精が出るじゃねえか!」
振り返ると、そこにいたのは歌川龍人会の若頭、豊国さんだった。
相変わらずの鋭い眼光だが、以前のような敵意はない。
その後ろには、飄々とした雰囲気の豊広さんが控えている。
「豊国さん……それに、豊広さんまで。どうしたんだ、こんな所に?」
「決まってんだろ!」
豊国さんは、有無を言わさぬ勢いで俺の肩をがっしりと掴む。
「もうすぐ三社祭だ! 先日の礼も兼ねて、てめえを神輿担ぎに誘いに来てやったぞ!」
「はあ!? いや、俺は仕事が……」
俺が戸惑いながら断ろうすると、豊広さんがにやにやしながら割って入った。
「まあまあ、そう言わずに。俺の情報によれば、宮神輿がこのあたりを通るのは明日の昼過ぎだ。その時間なら、写楽くんも手が空いてるんじゃないですかねぇ?」
この男、持ち前の情報収集能力で、俺の勤務状況まで完璧に把握しているらしい。
「そういうわけだ! なあ、いいだろ写楽!」
「いや、しかし……」
俺たちがそんなやり取りをしていると、話を聞きつけた仲間たちが、ぞろぞろと集まってきた。
「面白えじゃねえか!」
真っ先に食いついたのは、もちろん国芳だ。
「祭りと喧嘩は江戸の華! やらねえ手はねえぜ!」
「あら、楽しそうね。わたくしも、美しい神輿を担ぐのは嫌いじゃないわ」
歌麿まで乗り気らしい。
「待て」
その浮ついた空気を、清長の氷のような一言が切り裂いた。
「我々は帝都の平和を守るウキヨ英士だ。祭りに浮かれるなど言語道断。それに、貴様たち歌川龍人会と馴れ合うつもりもない」
「なんだと、てめえ!」
清長の言葉に、今度は豊国さんが食ってかかる。
まずい。
また一触即発か。
俺が冷や汗をかいていると、豊広さんがまあまあと二人をなだめた。
「落ち着いてくださいよ、清長さん。これは、二つの組の親睦を深める、絶好の機会じゃないですか。それに……」
豊広さんは、意味ありげに続ける。
「祭りの日ってのは、人の気が緩む分、良からぬ輩が動きやすい。そんな場所を、街中を練り歩く神輿を担ぎながら密かに合同で警邏をする。平和を守るウキヨ英士にとって、とても大切なお仕事ですよね?」
その言葉に、清長がぐっと押し黙る。
確かに、一理ある。
最終的に、政信の旦那の
「まあ、いいじゃねえか。たまにはよ。ただし、警邏は怠るな」
という鶴の一声で、俺たち浮世組も、三社祭に参加することが決定した。
豊国さんの熱意と豊広さんの策略に、完全に丸め込まれた形だ。
(……とんでもねえ祭りになりそうだな)
俺は思わず乾いた笑いを漏らすしかなかった。
そして、祭りの日を迎えた。
浅草の街は、朝から凄まじい熱気に包まれている。
道の両脇には出店がずらりと並び、威勢のいい呼び込みの声が飛び交う。
行き交う人々は誰もが笑顔で、この特別な日を楽しんでいた。
俺たち浮世組と歌川龍人会の面々は、それぞれの組の名が染め抜かれた揃いの法被に身を包み、浅草寺の境内に集まっていた。
「うおおお! 見ろよ写楽! すげえ人出だぜ!」
国芳が、子供のようにはしゃぎながら俺の肩を叩く。
「ああ、こりゃとんでもねえな」
普段は張り合うこともある二つの組だが、今日ばかりはそんな空気は微塵もない。
「よお、清長! てめえ、今日はやけに気合が入ってんじゃねえか!」
「豊国、当たり前のことを言うな。三社祭は、神事であると同時に俺たちの魂でもある。気を抜くなよ」
「へっ、素直じゃねぇな!」
豊国さんと清長が、憎まれ口を叩き合いながらも、どこか楽しげに笑い合っている。
その隣では、歌麿と国貞が、自分たちの法被を巡って言い争い(?)をしていた。
「やっぱり、うちの法被のデザインが一番美しいわ。この藍色の地に、白く抜かれた組の紋。シンプルでありながら、洗練された美しさがあるじゃない」
歌麿が、うっとりと自分の法被の袖を眺めながら言う。
「何言ってやんでい、歌麿の兄貴! 男は黙って、この背中の龍だろうが! こっちの方が、断然威勢が良くて格好いいぜ!」
国貞が、自信満々に背中を向けて見せる。
そこには、歌川龍人会の象徴である勇壮な龍の絵が描かれていた。
そんな賑やかなやり取りから少し離れた場所で、応為が兄である北斎の法被の襟を直していた。
「もう、兄貴は。襟が曲がってるじゃないか。だらしないね」
「……ああ。すまない」
「……別に、あたしはあんたのことなんか心配してるわけじゃないからね。ただ、浮世組の一員として、みっともない格好はしてほしくないだけだよ」
「……そうか」
そっぽを向きながら言う応為と、ただ静かにそれを受け入れる北斎。
不器用だけど、そんな兄妹のやり取りに心が温まる。
平和な、日常の光景。
俺は、その輪の中心にいながらも、胸の奥に渦巻く焦りを消すことができなかった。
(あと、三ヶ月半……)
この笑顔も、この活気も、あと三ヶ月半で全てが灰燼に帰す。
その未来を知っているのは、俺だけだ。
「……写楽」
不意に、隣にいた広重が、低い声で呟いた。
「顔色が悪いぞ。……もしかして、緊張しているのか?」
「え? ああ、まあな。神輿なんて、担いだことねえからよ」
俺は、おどけてみせる。
本当の理由など、言えるはずもない。
広重は、そんな俺の心中を見透かすかのように、静かに、だが力強く言った。
「……大丈夫だ。俺たちがいる」
その朴訥とした、しかし確かな信頼のこもった言葉。
俺は、何も言えずに、ただこくりと頷いた。
そうだ。俺は、もう一人じゃない。
この仲間たちがいる。
その時、豊国さんの声が響き渡った。
「てめーら、気合い入れろ!」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は7月4日(土)19時に更新予定です。




