蛇に睨まれた蛙
すっ、と開いた襖の向こうから、二人の男が姿を現す。
一人は、飄々とした、どこか食えない雰囲気の男。
歳は俺と同じくらいだろうか。
にやにやと笑いながら、この状況を楽しんでいるかのようだ。
そして、もう一人。
その男が姿を現した瞬間、店の空気が再び変わった。
豊国たちの放つ暴力的な威圧感とは違う、もっと静かで、それでいて底知れない、絶対的な支配者の気配。
「豊春の、兄貴……」
豊国の口から、うめくような声が漏れた。
兄貴、と呼ばれたその男、豊春は、穏やかな、しかし一切の感情を映さない瞳で、目の前の惨状を見つめている。
「豊国、国貞。……少し、騒ぎすぎだな」
落ち着いているが有無を言わさぬその声に、あれだけ威勢の良かった豊国と国貞が、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「けどよ、兄貴、こいつらが……!」
「言い訳は後で聞こう」
豊春はそれだけ言うと、ゆっくりと俺たちの前に進み出て、そして、深々と頭を下げた。
「攻助さん、店内のみなさん。うちの者が、大変お騒がせした。申し訳ない」
その完璧なまでの立ち振る舞い。
俺は、息を呑んだ。
この男、ただ者じゃない。
静かな佇まいそのものが、彼の格の違いを物語っていた。
「……頭を上げてくださいよ、豊春さん」
それまで黙っていた攻助さんが、静かに言う。
「ここは飯屋だ。みんな楽しく飯を食ってくれりゃそれでいいんだよ」
隣にいた飄々とした男は、やれやれといった様子で肩をすくめる。
「頭領がこうおっしゃっているんですよ。豊国さん、国貞。あなたたちも……、分かりますよねぇ?」
「豊広……てめぇ」
その言葉に、豊国は、不満そうに顔を歪めるが、攻助さんに向かって、不承不承といった体で頭を下げた。
「……悪かったな」
「攻助さん……申し訳ございません」
国貞も豊国に続き頭を下げる。
豊春は、その様子を見届けると、再び穏やかな笑みを浮かべた。
「では、我々はこれで。代金と迷惑料は、ここに置いておく」
そう言うと、彼はテーブルの上に数枚の札を置くと、部下たちを連れて静かに店を去っていった。
後に残されたのは、めちゃくちゃになった座卓と、重い沈黙だけ。
俺は、ただ呆然と、彼らが去っていった入り口を見つめていた。
「……なんだったんだ、今の」
俺の呟きに、隣にいた広重が、すまなそうに口を開いた。
「すまない、写楽。驚かせたな。彼らは、俺と国芳が所属する『歌川龍人会』のウキヨ英士たちだ」
そして広重は、改めて説明してくれた。
頭を下げていたあの男こそが、歌川龍人会を束ねる頭領、豊春さん。
飄々としていたのが、頭脳派幹部の豊広さん。
そして、好戦的な豊国さんは、歌川龍人会の若頭なのだと。
「んで、俺に絡んできたのが、国貞。俺の双子の兄貴だ」
いつの間にか隣に来ていた国芳が、やれやれといった様子で付け加える。
「昔から、ああやって過保護に絡んでくんだよ。悪気はねえんだろうが、ちと鬱陶しくてな」
歌川龍人会。
そして、あの底の知れない頭領、豊春さん。
俺が足を踏み入れたこの世界には、まだまだ俺の知らない、すげえ連中がいるらしい。
写楽たちが『浅魂』で歌川龍人会と一触即発の事態に陥っていた、ちょうど同じ時刻。
浅草浮世組の拠点、その奥にある組頭の部屋では、重い空気が沈殿していた。
部屋にいるのは四人。
組頭の政信、番頭の清信、そして組の主力である北斎と清長。
「——以上が、ここ数週間の惡魂の出現パターンです」
清長が、地図を指し示しながら報告を終える。
その表情は、いつにも増して硬い。
「奴らの動き、明らかにこれまでとは違う。統率が取れすぎている。まるで、誰かの意図で動かされているかのようだ」
「同感だぜ」
清信の言葉に、政信は、書斎机に置かれた酒を呷りながら、気だるげに相槌を打つ。
「これまでは、人の負の感情から自然発生する、いわば野良犬みてえなもんだった。だが、ここのところの奴らは、まるで訓練された軍用犬だ。人の弱みを的確に突いてくる」
「……大倭衆、でしょうか」
これまで沈黙を保っていた北斎が、静かに口を開いた。
その名が出た瞬間、部屋の空気がさらに張り詰める。
ウキヨ英士にとって、その名は不吉の象徴。
「可能性は高いだろうな」
ご意見番である清信が、腕を組みながら重々しく頷く。
「先日の爆発騒ぎも、野良惡魂の仕業ではないだろう。手口といい、背後にでかい何かの存在を感じる」
「目的は、浅草龍穴でしょうか」
清長の言葉に、その場の空気が一瞬で固まった。
「面倒なことになったな」
政信は、杯に残っていた酒をぐいと飲み干すと、その表情から飄々とした色を消した。
「これまでの小競り合いとは訳が違う。本格的に、奴らが動き出したと見るべきだ」
そして政信の眼光に鋭さが増す。
「これより、浮世組は警邏体制を強化する。二人一組での行動を徹底し、少しでも異変を察知した場合は、必ず応援を要請すること。単独での戦闘は、これを禁ずる」
組頭の命令。
その言葉の重みを、ここにいる誰もが理解していた。
「……写楽の件、どうしますか」
北斎が、静かに問う。
その問いに、政信は少しだけ考えるそぶりを見せると、にやりと口の端を吊り上げた。
「あの男は、規格外だ。型にはめるだけじゃ、宝の持ち腐れになる。……面白い化学反応が起きるかもしれねえぜ」
その真意を測りかね、清長は訝しげな視線を政信に向ける。
だが、政信はそれ以上何も言わず、ただ窓の外、闇に包まれ始めた帝都の空を静かに見つめていた。
——大倭衆。
その悪意の影が、すぐそこまで迫っている。
帝都の平和な日常が、今、静かに蝕まれ始めていることを、まだ写楽は知らなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は6月20日(土)19時に更新予定です。




