歌川龍人会
がらり、と店の引き戸が開く音。
それまで賑やかだった店内の会話が、ぴたりと止む。
まるで、冷水を浴びせられたかのように、空気が一瞬で凍り付いた。
入り口に立っていたのは、二人の男だった。
仕立ての良い、黒いスーツ。
この大正の世でも、まだ物珍しいその洋装を、二人は隙なく着こなしている。
浅草に根を張る俺たち浮世組とは対極の、近代的な組織の人間といったその佇まい。
(……なんだ、こいつら?)
一人は、剃刀のように鋭い眼光を持つ男。
その全身から、触れれば斬られそうな好戦的なオーラが溢れ出している。
そして、もう一人。
その男の雰囲気は、隣の男とは正反対だ。
太陽のような屈託のない笑顔を浮かべ、真っ直ぐな瞳。
ヒーローか何かのように、自信に満ち溢れている。
その二人が、まっすぐに俺たちの座敷へと向かってきた。
店内の誰もが、固唾を飲んでその様子を見守っている。
鋭い眼光の男が、国芳と広重の姿を認めると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「おゥ? 国芳に広重じゃねえか。てめえらも来てやがったのか」
その言葉には、親しげな響きの中に、有無を言わせない貫禄があった。
俺たちの間に、緊張が走る。
「……豊国さん。それに、国貞も」
広重が、静かにその名を呼んだ。
(豊国に、国貞……。)
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
これから、厄介なことが始まる。
その予感が、肌をピリピリと刺していた。
俺がごくりと唾を飲み込むのと、太陽のように快活な男——国貞が、俺の隣に座る黒猫の国芳に向かって駆け出すのは、ほぼ同時だった。
「芳ぃいいい! 心配したんだぞ、お前! ちゃんとやっているか!」
国貞という名の男は、国芳の肩を力強く掴んでぶんぶんと揺さぶる。
その瞳は、再会を喜ぶかのように熱い光に満ちていた。
対する国芳は、心底鬱陶しそうな声を上げる。
「やめろって、兄貴! 人前でベタベタすんじゃねえ!」
「何を言う! 兄弟の再会に、そんなの気にするな」
「そんなんじゃねぇって!」
(人間と黒猫が兄弟???)
頭の中が混乱する。
一方、豊国という名の男は、そんな二人の様子を、ニヤニヤしながら見ていた。
「おい芳ぃ、兄貴にそんな態度とんじゃねえよ。久しぶりの再会じゃねぇか」
「豊国さんまで……。久しぶりの再会って、昨日の会合で会ったばっかじゃないっすか!」
国芳の反抗的な態度に、豊国の眉がぴくりと動いた。
まずい、と思ったが、もう遅い。
「あァ? てめえ、誰に向かって口利いてやがる」
豊国の声のトーンが、一段低くなる。
店の空気が、再び凍り付いた。
その時、これまで黙って成り行きを見守っていた広重が、意を決したように立ち上がった。
「豊国さん、少し落ち着いてください。国貞も。店に迷惑がかかるだろ」
生真面目な広重の、必死の仲裁。
だが、その火に歌麿が油を注ぐ。
「あら、賑やかなこと。いいじゃない、若い男たちが元気なのは、見ていて気持ちがいいわ」
優雅に扇子を扇ぎながら、歌麿が他人事のように言う。
「……んだと、てめえ」
豊国の鋭い視線が、今度は歌麿へと突き刺さった。
いよいよ、一触即発。
俺は、いつでも動けるように、そっと腰を浮かした。
「てめえ、なめてんのか!」
豊国が、獣のような唸り声を上げる。
次の瞬間、彼がそばにあった座卓を蹴り飛ばした!
ガシャン! というけたたましい音と共に、皿や徳利が宙を舞い、床に叩きつけられて粉々に砕け散る。
その破壊音は、まるで合図かのように、それまで優雅に振舞っていた歌麿も、静かに立ち上がり、豊国たちを睨みつけた。
もう、誰も止められない。
乱闘。
その二文字が、俺の頭をよぎった、その時だった。
「——やかましい」
それは、怒鳴り声ではなかった。
静かに、だが腹の底に響くような、低く、そして重い声。
その一言は、爆発寸前だった店の空気を、一瞬にして凍りつかせる。
声の主は、攻助さんだった。
さっきまでの気風のいい親父の雰囲気は、どこにもない。
カウンターの奥からこちらを睨むその眼光は、まるで歴戦の武士のように鋭く、俺たち全員の動きを縫い止めていた。
ウキヨ英士である豊国や国芳でさえ、その気迫に呑まれ、動きを止めている。
(……なんなんだ、この人は)
ただの飯屋の店主のはずだ。
だが、その一言と眼光だけで、この場の空気を完全に支配している。
店の中は、水を打ったように静まり返っていた。
誰もが、息を呑んで攻助さんを見つめている。
すると、攻助さんはふっとその気迫を緩め、いつもの人の良い顔に戻ってにかっと笑った。
「飯は楽しく食うもんだ。喧嘩なら、腹一杯食ってからにしな」
その言葉に、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
「……ちっ」
豊国が、ばつが悪そうに舌打ちした。
その張り詰めた空気が和らいだ、その時だった。
店の奥、個室の襖が静かに開く音がした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は6月17日(水)19時に更新予定です。




