未来の記憶
吹き抜ける風が、火照った体を冷ましてくれる。
眼下に広がるのは、帝都・東京の絶景。
瓦屋根が連なる下町の風景と、その向こうにそびえ立つ近代的なビル群。
そして、それらを縫うように走る路面電車。
「……すげえ……」
俺は、思わず息を呑んだ。
「でしょ?」
歌麿は、柵に肘をつきながら、うっとりとその景色を眺めている。
「私、ここから見る帝都の景色が好きなのよねぇ。ごちゃごちゃしてて、まとまりがなくて……でも、一生懸命生きてる感じがして、美しいじゃない」
彼の横顔は、いつもの飄々とした雰囲気とは違い、どこか真剣な色を帯びていた。
「写楽ちゃんはさ」
歌麿は、景色から目を離さないまま、静かに問いかける。
「なんで、戦うの?」
歌麿の静かな問いが、夕暮れの風の中に溶けていく。
俺は、すぐには答えられなかった。
(なんで、戦う……?)
決まってる。
未来を変えるためだ。
応為を、仲間たちを、この帝都を守るため。
だが、その答えが、やけに薄っぺらく感じられた。
任務に失敗し、仲間たちの足を引っ張った今の俺に、そんな大層なことを言う資格があるとは思えなかった。
「……守りてえ奴らが、いるから、かな」
やっとのことで絞り出した俺の答えに、歌麿は「ふうん」とだけ相槌を打つ。
「写楽ちゃんは、優しいのね」
彼は、夕日に染まる帝都の景色から目を離さず続けた。
「でも、優しさだけじゃ、何も守れないわ。戦場は、そんなに甘い場所じゃない」
「……分かってるよ」
俺は、悔しさを滲ませながら答える。
分かっている。
痛いほど、分かっているつもりだ。
「あたしはね」
歌麿は、不意にこちらを振り返った。
「美しいものが好きなのよ。……ただ、それだけ」
「……は?」
「美しいものは、人の心を奪うのよ。この帝都の夜景がそうであるようにね」
彼の視線が、再び眼下の絶景へと注がれる。
瓦斯灯の柔らかな光が、まるで宝石のようにきらめき始めていた。
「戦場でも同じ。相手があたしの動きの美しさに心を奪われた一瞬、そこが最大の勝機になるの。あたしの剣は、相手を斬るためだけにあるんじゃない。心を奪い、魅了して、戦う気力を失わせる。そういう戦い方も、あるのよ」
美しさ。
それが、彼の強さの根源。
北斎が求める、森羅万象の「理」とは、また全く違う境地。
「でもね」
歌麿は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「それだけじゃ、仲間は守れない……。それも、貴方たちといて学んだことかしら」
その言葉に、俺はハッとした。
この人も、迷っているのか。
俺と同じように。
「清長も、たまには正しいこと言うのよ。彼の言う規律が無ければ組織は成り立たないわ。それがあるから、あたしたちは仲間に背中を預けて力をふるうことが出来る。美しく舞うことができる。……悔しいけどね」
歌麿の素直な本音。
それは、俺の心にすとんと落ちてきた。
そうだ。
俺は、一人で戦おうとしすぎていたのかもしれない。
北斎のようにも、歌麿のようにもなれない。
俺は、俺だ。
なら、俺だけの戦い方は、一体どこにある?
「……ありがとよ、歌麿」
俺がぽつりと礼を言うと、彼は「あら、素直じゃない」と、いつもの調子で笑ってみせた。
夕暮れの風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
北斎の「理」と、歌麿の「美」。
二人の偉大な先輩の教えが、俺の心の中で、一つの答えへと形を変えようとしていた。
歌麿が去った後も、俺は一人、凌雲閣の展望台に残っていた。
眼下には、家路へと急ぐ人々の流れと、宝石のようにきらめき始めた帝都の夜景が広がる。
美しい。
歌麿の言う通り、この景色は、確かに人の心を奪う力を持っていた。
(……俺だけの戦い方)
北斎の、森羅万象の理を求める、どこまでも深い「理」の剣。
歌麿の、相手の心さえも魅了する、華麗でしたたかな「美」の剣。
二人とも、とんでもなく強くて、とんでもなく格好いい。
だが、俺は、彼らのようにはなれない。
俺の戦う理由は、もっと単純で、もっと泥臭いものだ。
未来で失った、応為の笑顔。
あの平和な日常。
ただ、それだけを取り戻したい。
守りたい。
(……そうだ。それで、いい)
北斎のように、森羅万象の理を捉えることはできないかもしれない。
歌麿のように、華麗に舞うこともできないかもしれない。
だが、俺には俺だけの武器がある。
未来を知る、この記憶。
そして、仲間を失う痛みを知っている、この心。
俺は、俯いて自分の掌を見つめた。
不器用で、傷だらけで、まだ何も掴めていない手。
(……でも、この手で守るんだ)
そうだ。
俺は、一人じゃない。
俺だけの戦い方とは、きっと、この仲間たちとの「絆」を力に変えることなんだ。
それぞれの強さを信じ、背中を預け、そして、俺が未来から持ってきたこの記憶で、仲間たちを導く。
今はまだ、足手まといかもしれない。
だが、いつか必ず。
俺は、顔を上げた。
眼下に広がる帝都の灯りは、まるで俺の決意を祝福するかのように、強く、そして優しく輝いている。
北斎のようにも、歌麿のようにもなれない。
俺は、俺のやり方で、未来を変える。
新たな決意を胸に、俺は夜の闇へと続く螺旋階段を、力強い足取りで降りていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は6月6日(土)19時に更新予定です。




