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ばいおろじぃ的な村の奇譚  作者: ノラ博士
29/62

其ノ弐拾九 美味な蜜を採集する村

 奇妙な村だった。


 カナダのケベック州、セントローレンス川沿いに位置する、メープルシロップの産地。平たい土地に広がるサトウカエデの原生林が、うっすらと雪に覆われている。気温は既に昼間でも氷点下に近く、その寒さを乾いた空気がより一層に引き立てる。

 この林では、それを有する村人たちでも少数の者しか存在を知らない、美味な蜜を得ることが出来る。


 今回ここを訪れた理由は、その蜜がとあるチーズと最高にマッチするよう思われたからである。エサ由来のナッティな風味に富んだリス乳から作られる特製品。リスを家畜化してくれたことの素晴らしさと僥倖(ぎょうこう)を、これでもかと実感させられる。


 家畜化とは必ずしも成功するものではない。対象となる動物が、例えば空を飛んだり、穴を掘って土の中で暮らす性質を持っていた場合、管理することが難しくなるのはその一因である。家畜化リスの元になった野生のヨーロッパアカリスも、樹上棲という扱いにくさを有していた。

 しかしこれは、球体に形容を出来るほどの肥満に繋がる遺伝子変異によって、幸運にも解決されたのだ。あの家畜化リスたちは、その体型のため木登りも自力での交尾も今や不可能であり、人間の助けが無ければ死に絶えてしまう生物に成り果てている。


 家畜化の対象に選ばれたこと自体も、偶然性の関わるポイントだ。例えば狩猟のパートナーとしては、卓越した連携で狩りを行うタイリクオオカミが選ばれたが、同様の性質を持つブチハイエナでも目的に合致はしたはずである。しかし、既に犬という成功例がある状況では、わざわざ他の動物を同じコンセプトで家畜化する必要性は低く、労力を考えても避けられたことだろう。

 肉と乳を得るという目的では、牛や羊に山羊などが極めて有用だが、フランスの奥地で見られた家畜化リスは、王族に献上するという特別な理由のおかげで成立したらしい。


 この様に運の要素にも左右されつつ、多くの手間暇をかけて様々な家畜が作られてきたわけだが、そういったプロセスを経ずに利用される動物もいる。狩猟などで十分な数や量が得られたり、品種改良をするまでもなく質が高いといったケースが挙げられる。

 この村で採集される特別な蜜も、そういった類いの食材である。


 よし、このサイズの木ならすぐに見付かるだろう。私は、太さ30センチメートル近いサトウカエデの木の前で立ち止まり、足元に落ちていた枝を使って、地面をせっせと掘っていった。


 穴の深さが50センチメートルほどに達したところで、目的のものが姿を現した。その身にたっぷりと蜜を蓄えた、メープルシロップゼミの幼虫だ。ミツツボアリの様に凄まじく膨らんだ丸い腹部は、ピンポン玉より少し小さい程度の大きさに達している。その肛門に群がる7匹の幼虫は、体長1~2センチメートルで通常の腹部を持った若い個体である。


 メープルシロップゼミの祖先は、ジュウシチネンゼミの一種だと分かっている。セミの中でも特に長い期間を土の中で過ごすタイプだったわけだが、ある時から完全なる地中棲へと移行したらしい。

 外敵の少ない地面の下のみを生活の場にする戦略。それを可能にしたのは、羽化を直前でキャンセルするという離れ業である。これによって、土中での生活に適した幼虫の殻を装備しつつ、その中身は繁殖が可能な成虫の体となったのだ。

 このことは、空は飛べず土には囲まれと、移動が大きく制限されることを伴った。そのため繁殖相手が近場で確保されていき、子孫たちの血縁度は高くなっていった。


 血縁度の高さは、自身は子を成さずに家族のため働く個体を有するシステム、真社会性の獲得を促す地盤となる。そして、空気中の窒素をアンモニアに変える窒素固定細菌との共生が契機となって、腹部に蜜を蓄え続けて一生を終える、そんな特殊な個体が現れたようだ。


 セミの幼虫は栄養分に乏しい道管液をエサとするのが一般的だが、これは閉鎖的な環境をクリーンに保つことに役立つ。アミノ酸などに比べて糖類を非常に多く含む篩管液を利用したなら、使いきれない分を含む甘い液を排泄する必要があるからだ。

 しかし、この糖類の一部でも腸内に共生する細菌たちに与えられれば、窒素固定細菌からはアンモニアを、別の腸内細菌からはそれを元に作り出すアミノ酸のリターンが期待される。薄い道管液を吸ってゆっくりと成長している状態から、かなりスピード感のある成長を実現させるチャンスとなるわけだが、難点はそれでも過剰な糖類が残ってしまうことである。


 その問題を解決するかたちで、特定の個体が自身は子を成すことを放棄し、篩管液に含まれる余剰な糖類を腹部に溜めていくようになったのだ。この特殊な個体は、アミノ酸やミネラルに富んだ液を肛門から排泄する。それをエサにした幼虫たちの成長期間は2年間にまで圧縮され、祖先と比べて圧倒的に子孫を増やしやすくなった。

 こうして進化してきたメープルシロップゼミは、サトウカエデの木の根を渡り歩ける範囲で広がっていき、河川などで分断されたこの林に限られはするものの、繁栄していると言えるだろう。


 エサの貯蔵ではなく、排泄の我慢として蜜を蓄える点がユニークなこの特殊な個体は、春先の一時期に新しく生じてくる。

 約2センチメートルまで育った幼虫は、羽化前では最後の脱皮を行うタイミングになると群れから離れて、脱皮後は道管液を吸いながら性成熟を待つようになる。これが、春が近付いて多量のメープルウォーターが道管を流れる時と重なった場合、それをがぶ飲みすることで、脱皮直後のまだ硬くなっていない腹部を一気に膨らませていく。こうしてオスメスを問わず、成長のタイミングに依存して一部の個体が特殊化するわけだ。


 腹部が最大サイズにまで膨らんだ後は、篩管液を吸うようになり、気門から水分を放出することで蜜を濃縮、コンパクトにする。2年間ほどで成虫となる他の個体とは違い、特殊化を果たした個体は祖先であるジュウシチネンゼミ並みの寿命となり、幅広い世代の幼虫たちへ栄養素の配分に優れた液を供給していき、その一生を終える。

 社会性に関する行動は通常の幼虫でも観察されるが、こちらは死んだ個体から発生するリノール酸を検知した時の、穴を掘ってその死骸を埋めるという清掃活動に限られる。


 よし。それでは、メープルシロップゼミの大きく膨らんだ腹部に注射器を刺して、半分くらいの蜜を採集するとしよう。スッと針を突き立てて、ほんのりと琥珀色を帯びた蜜をゆっくり吸い出していく。この淡い色合いは、加熱して濃縮される製法ではあり得ない。

 うん、ちゃんとメープルシロップと同等の粘度になっている、質の良い蜜だな。私はそう確認し、自分で掘った穴を埋め直した後、北海道の北部に位置する研究所へと移動を始めた。


「C'est le fromage bleu」


 研究所に着いて間もなく、A級諜報員からリス乳の青カビチーズを受け取った。サイズは直径11センチメートル、高さ3センチメートル半ほど。ペニシリウム・ロックフォルティの変種による熟成は完璧に仕上がっているらしく、クリの葉によって外気から隔てられているというのに、食欲をそそる芳香は隠しきれていない。


 私は研究員用のカフェテリアへと足早に移動すると、空いている席に座りながら、チーズを覆う茶色い葉を1枚ずつ剥がしていった。1枚取り除くたびに、この空間における存在感が増しているかの様である。

 ……青カビチーズの特徴的な香り、2-ヘプタノンに由来する独特なフルーティーさが素晴らしく強い。その元となるカプリル酸に乏しいミルクから作られているにも拘わらず、同じく元になるカプリリルCoAが蓄積する変種の青カビを用いてるため、むしろロックフォールなどよりも強烈なアロマが感じられている。


 まずは、一欠片をそのまま試してみよう。……!! …脂肪分が非常に多いトリプルクリームチーズ故のクリーミーさに、鮮烈で爽やかな青カビチーズの香りが上~手に乗っている。それに加えて香ばしいナッツの香りが自然に溶け込んでいて、これだけで上質なデザートとして成立するとさえ思える。

 この香りのコンビネーションは、ナッツ由来の成分を青カビが少しずつ代謝することで、持続的にナッティな風味を強めることにより成り立っている。青カビを繁殖させる過程で内部まで空気にさらすため、原料そのものの風味だけならもっと飛んでいるはずなのだ。


 あの村で搾られたリス乳と、あの村で育まれた青カビの奇跡的な組み合わせ。1つの土地の中での巡り合わせが引き起こすシンフォニーの妙には、本当に驚かされることが多い。


 さて、それではこの素晴らしいチーズに、先ほど採ってきたメープルシロップゼミの蜜をかけて食すとしよう。12分の1のピースに切り分けた塊に、注射器から極上の蜜をとろりとかける。いざ実食だ。

 !! ……これは、マリアージュ……。単品で極まっているかとも思えた青カビチーズが、透き通るようなスッキリとした甘さの蜜と完全に調和している。スクロースの甘味を主としつつも、カルシウム除去により沈殿せずに残るリンゴ酸、細菌が生成した内の一部が混入した各種アミノ酸、それが常温でわずかに反応して出来たメラノイジン、これら微量に含まれる成分が優しくも複雑な風味を演出している。


 一般的な青カビチーズには蜂蜜を合わせるのが定番であるが、今回の品のフルーティーでナッティな特徴を活かすには、転化糖が主成分の蜂蜜では少し甘過ぎる。加熱してメイラード反応を起こしたメープルシロップでは、風味が強過ぎる。そこで、スクロースの甘さを隠し味ほどの酸味が引き締めて、チョコレートやポップコーンの香気をほんの少しだけ感じさせる、メープルシロップゼミの蜜が最適だと予想していた。

 その考えが当たったことが嬉しく、そのハーモニーを体験出来たことはもっと嬉しい。残りの青カビチーズを食べる配分を考えながら、私は次の村へと歩みを進めた。

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