初陣
天文二十三年(一五五四年)三月四日、早朝。
まだ朝霧が残る中、俺たちは出陣の準備を進めていた。今日、俺は織田家の家臣として、初めての本格的な戦に臨む。
俺は自分の装備を確認した。腰には道具を入れた袋を下げ、手には鉄輪で補強したこん棒を持つ。刀は持っていない。俺にとって、このこん棒は自分の身を守るための大切な武器だ。
「正男、準備できた?」
声をかけてきたのは、なつきだった。両手で扱う金槌を背負い、いつでも出発できる格好をしている。その傍らには、鎧を身につけた黒い巨牛、くろがいた。
「こっちは大丈夫だ。なつきは大丈夫なのか?」
「あたしは平気。金槌もあるし、くろも準備できてるよ」
なつきが胸を張る。くろは、低く鳴いた。
「そうか。頼りにしているぞ」
俺がそう言うと、くろは満足そうに鼻を鳴らした。その様子を見て、なつきが笑う。
「くろは、正男に頼りにされてうれしいんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。くろは、あたしのことだけじゃなくて、正男のことも気に入ってるからね」
くろの気持ちは分からないが、少なくとも敵意は感じない。むしろ、これからの戦いでは心強い味方になってくれるはずだ。
「僕も準備できました」
五兵衛がやってきた。
「おお、似合っているじゃないか」
俺が声をかけると、五兵衛は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。これなら、以前より安心して戦えそうです」
「ただし、鎧があるからといって油断するなよ。攻撃を受けないことが一番大事だ」
「分かっています。無理はしません」
五兵衛は真剣な表情でうなずいた。その言葉を聞いて、俺も安心した。
戦場では、どれほど優れた装備を用意しても、命の安全が保証されるわけではない。だからこそ、装備を過信せず、周囲をよく見て行動する必要がある。
そして、もう一頭。熊蔵も、新しい鎧を身につけていた。熊蔵は体を動かし、鎧の具合を確かめるように地面を踏みしめた。
「よし。動きに問題はなさそうだな」
俺が確認すると、熊蔵は低くうなった。これで、くろも熊蔵も、以前より安全に戦場を進めるはずだ。
もっとも、熊を連れて戦に向かうなど、普通なら考えられない話だ。だが、この世界では常識にとらわれていては生き残れない。使えるものは活用し、危険を減らすために工夫する。それが、俺のやり方だった。
「正男殿」
声の方を振り向くと、木下藤吉郎が立っていた。
「藤吉郎殿。おはようございます」
「これからは、わしのことは藤吉郎と呼んでくだされ」
「では、わたしのことは正男と呼んでください」
「おお、そうしてくださるか。では、これからは正男殿ではなく、正男と呼ばせてもらいますぞ」
藤吉郎は、親しげな笑みを浮かべた。
「いよいよ出陣じゃな」
だが、その目には戦に臨む者の真剣さが宿っている。
「準備は整ったのか?」
「おう。いつでも出発できる」
「よし。では、集合場所へ向かおう。殿から作戦の説明があるはずじゃ」
俺たちは、藤吉郎に続いて歩き出した。いよいよ、後戻りのできない戦が始まろうとしていた。
集合場所には、すでに多くの兵が集まっていた。槍を持つ足軽たちが列を整え、武将たちはそれぞれの部隊の状況を確認している。柴田勝家や丹羽長秀の姿もあった。
俺たちが到着すると、藤吉郎は背伸びをして周囲を見回した。
「まだ殿はお見えになっておらぬようじゃな」
「そのようだな」
俺は集まった兵たちを眺めた。
これから向かうのは、山中に築かれた隠し城だ。敵がどれほどの兵力を持っているのか、城の中にどのような備えがあるのか、分からないことは多い。正面から攻めるだけでは、大きな損害が出る可能性がある。だからこそ、今回の作戦では正面攻撃と奇襲を組み合わせることになった。
やがて、織田信長が姿を現した。周囲の兵たちが一斉に頭を下げる。信長は集まった者たちを見渡すと、静かに口を開いた。
「これより、隠し城の攻略を開始する」
その声が、周囲に響き渡った。
「権六は正面から敵を引きつけよ。五郎左は本隊の支援と、戦況の把握に努めよ」
「「はっ!」」
勝家と長秀が返事をする。
信長は続けた。
「猿は別働隊を率い、岩壁の隠し通路から城へ接近せよ。権六の部隊が正面から敵を引きつけている隙に、奇襲を仕掛けるのだ」
「はっ。必ずや、役目を果たしてみせまする」
藤吉郎は力強く答えた。
信長の視線が、こちらへ向けられる。
「正男」
「はっ!」
俺は一歩前に出た。
「お前は猿の別働隊を案内せよ」
「承知いたしました」
ついに来た。俺が任されたのは、奇襲部隊を目的地まで導く役目だ。敵に見つかれば、奇襲そのものが失敗する可能性もある。責任は重い。だが、ここで尻込みするわけにはいかなかった。
信長は俺を見据えた。
「功を焦るな。無理に進めば、味方を危険にさらすことになる」
「心得ております」
俺は深く頭を下げた。
戦場では、勇気だけでは足りない。敵の動きを読み、味方の状況を把握し、危険を避けながら目的を果たす。製造業の現場で身につけた考え方も、戦場で役立つ場面があるはずだ。
ただし、戦場は工場とは違う。一度の判断ミスが、人の命を奪うこともある。そのことを忘れてはならない。
信長は全員を見渡した。
「各々、己の役目を果たせ。出陣!」
「おおっ!」
兵たちの声が響いた。部隊が動き始める。槍を持つ足軽たちが列を整え、武将たちはそれぞれの持ち場へ向かった。
俺たちも、藤吉郎の別働隊に加わる。なつきは金槌を背負い、くろの背に乗った。五兵衛は刀の位置を確かめ、熊蔵も俺たちの後ろについてくる。
装備は整った。仲間もいる。あとは、与えられた役目を果たすだけだ。
「正男、頼りにしておるぞ」
藤吉郎が声をかけてきた。
「おう。任せろ」
「うむ。じゃが、危険を感じたら無理はするな。道を知っているお主を失うわけにはいかぬからな」
「ああ、分かってる」
俺は前方を見つめた。これから進む道の先には、敵が待ち構えている。どんな危険が潜んでいるのか、今はまだ分からない。だが、立ち止まっているわけにはいかなかった。
俺たちは、隠し城へ続く道へと歩き出した。
「よし、行こう」
俺はこん棒を握り直した。
いよいよ、隠し城攻略作戦が始まる。
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