逃走
山中の隠された城から、俺たちは必死に逃げていた。
「こっちだ!」
俺が先頭を走り、その後ろを五兵衛、なつき、熊が続く。少し離れたところを、くろが走っていた。
「はぁ……はぁ……」
山道を走り続け、ようやく俺たちは足を止めた。
「ここまで来れば、大丈夫か?」
俺が振り返る。追ってくる人間の姿はない。
「どうだ、くろ?」
くろが耳を動かした。
「モォ……」
なつきがくろの様子を見る。
「人の気配はないって」
「そうか」
俺はようやく息を吐いた。
「助かった……」
五兵衛が木の幹にもたれかかる。
「正男様……俺は、もう走れません……」
「五兵衛、まだ若いだろ」
「若さと体力は別物です」
「……まあ、そうだな」
俺たちはその場で少し休むことにした。熊も地面に座り込み、大きな口を開けて息をしている。
「お前も疲れたよな」
俺が熊に近づくと、熊はゆっくりと顔を近づけてきた。
ぺろっ。
「うわっ!」
熊が俺の手を舐めた。
「ははっ。元気そうだな」
熊は嬉しそうに俺の横に座った。
なつきが笑う。
「この熊、正男にも懐いたね」
「最初は警戒してたんだけどな」
「助けてもらったからじゃない?」
「そうかもしれないな」
俺は熊の頭を軽く撫でた。熊は気持ちよさそうに目を細める。すると、俺の肩に頭を乗せてきた。
「重い! 重い!」
「ははは。甘えてるんだよ」
なつきは俺が慌てる様子を見て面白がっている。
ふぅー。
熊から解放された俺は、山の奥を見た。
「それにしても……さっきの城は、一体何なんだ?」
五兵衛の表情が険しくなった。
「普通の山城ではありませんでした」
「俺もそう思う」
大量の武器と鍛冶場。武器を保管していた巨大な建築物。そして、山の中に築かれた巨大な城。あそこには、明らかに普通ではない規模の人間が集まっている。
「剣が百本」
俺が呟く。
「槍が二百本。弓も大量にありました」
五兵衛が続ける。
「それに、熊を使って武器を運んでた」
なつきが言った。
「そうだ。あれだけの武器を、一体どこへ運んでいる?」
「城の中ではないでしょうか」
五兵衛が答える。
「いや……」
俺は首を横に振った。
「男たちは言っていた。『例の場所へ運ぶ』と」
「つまり、あの城は終着点じゃない可能性がある」
五兵衛が目を見開いた。
「では……あの城から、さらに武器が運ばれている?」
「そう考えるのが自然だ」
俺は山の奥を見た。
「あの城は、武器を集める場所なのかもしれない」
「それなら、誰が何のために……」
あの山には、俺たちがまだ知らない何かがある。
「……やっぱり、俺たちだけで調べるのは危険だな」
五兵衛が頷いた。
「一度、戻ったほうがいいでしょう」
「俺もそう思う。このことを報告する」
俺は山を振り返った。
あれだけの武器と人間。そして、山中に築かれた巨大な城。俺たちだけの問題ではない。下手をすれば、織田家そのものに関わる話だ。
「ただ……この熊をどうするかだな」
俺が熊を見ると、熊は俺を見つめ、それからなつきの隣へぴったりと寄り添った。
「熊は、あたしたちと一緒に行きたいって」
「やっぱりそうか」
「うん」
なつきが熊の頭を撫でる。熊は気持ちよさそうに目を閉じた。
五兵衛が熊を見ると、熊も五兵衛をじっと見つめた。
「……なんでしょう」
熊が一歩近づく。
「え?」
さらに一歩。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
熊が五兵衛の肩に前足を乗せた。
「重い! 重いです!」
なつきが笑い出す。
「熊、五兵衛のこと気に入ったみたい」
「僕は全然嬉しくありません!」
俺も思わず笑ってしまった。
「五兵衛、仲間が増えてよかったな」
「正男様! 他人事だと思って!」
山中に、俺たちの笑い声が響いた。
◇
俺たちは再び山を下り始めて、しばらく経った。
険しい山道を進みながら、俺たちは慎重に足を進めていた。
「この道で大丈夫ですか?」
五兵衛が周囲を見回す。
「ああ。来た道をそのまま戻るより、少し離れた道を使ったほうがいい」
「なるほど。追手が来る可能性がありますからね」
「そういうことだ」
俺たちは、できるだけ人目につかない道を選んでいた。
先頭を歩くのはなつき。その隣には熊がいる。熊はなつきのすぐそばを歩き、時々鼻を近づけていた。
「熊、疲れてない?」
なつきが熊の顔を覗き込むと、熊は嬉しそうに鼻を鳴らした。
「元気みたいだね。ならよかった」
俺は後ろから二人を眺めていた。熊はなつきにすっかり懐いている。まあ、助けてもらったのだから当然かもしれない。
そんなことを考えていると、後ろからくろの声が聞こえた。
「モォ……」
俺が振り返る。
「どうした、くろ?」
くろが俺を見て、それからなつきと熊を見る。そして、もう一度俺を見た。
「……?」
なんだ? なにが言いたいんだ?
くろは少し不満そうな顔をしている。なつきも振り返った。
「どうしたの?」
「モォ……」
くろが低い声で鳴く。
なつきが首を傾げたが、すぐに何かに気づいたようだった。
「……あ」
「どうした?」
「くろ、ちょっと不満そう」
「不満?」
「うん」
なつきが熊を見る。熊はなつきの隣にぴったりとくっついていた。
「もしかして……」
なつきが指を指しながら笑った。
「くろ、熊にやきもち焼いてる!」
「え?」
くろは熊を見る。熊もくろを見る。しばらくの間、二頭が無言で見つめ合った。
俺は二頭の間に入った。
「おいおい、喧嘩するなよ」
熊は俺を見ると大人しくなった。ところが、くろはまだ熊を見ている。
「くろ」
俺がくろの頭を撫でると、くろは少しだけ顔を俺に寄せてきた。
「よしよし」
「モォ……」
「……やっぱり、やきもちか?」
くろが俺の肩に頭を押しつけてきた。
「重い! 重いって」
俺は笑いながら、くろの首を撫でる。なつきが楽しそうに笑った。
「くろも可愛がられたいと思ってるんじゃない?」
「そんなこと言われてもな……」
俺は熊を見る。熊はなつきの隣で大人しくしていた。
「じゃあ、くろも熊と仲良くすればいいだろ」
「モォ?」
くろが熊を見る。俺は熊の頭を撫でた。
「ほら。こいつも仲間だ」
熊がくろに近づくと、くろは少し警戒したように熊を見た。熊が鼻を近づける。
くんくん。
くろも鼻を近づける。
くんくん。
二頭は互いの匂いを確認した。
「どうだ?」
俺が見守っていると、熊がくろの頭を舐めた。
「おお」
くろが一瞬固まった。そして、少し嬉しそうに鳴いた。
「モォ……」
「仲良くなったみたい」
なつきが笑う。
「よかった」
俺も安心した。これで少しは、くろのやきもちも収まっただろう。
ところが、次の瞬間、くろがなつきの横にやってきた。そして、なつきと熊の間に体を入れる。
「……くろ?」
くろはなつきに体を寄せた。
「お前、まだやきもち焼いてるのか?」
「モォ」
「ははは」
思わず笑ってしまう。五兵衛も呆れたような顔をしていた。
「くろも大変ですね」
「何が?」
「熊が突然、仲間になったんですから」
「まあ、そうだな」
五兵衛が熊を見る。
「しかし、熊もかなり大きいです」
「くろも負けてないけどな」
「どちらも町に連れていったら大騒ぎでしょうね」
「……それは考えないようにしていた」
俺は頭を抱えた。山を下りる前に、もう一つ問題が増えてしまった。
それでも、仲間が増えたこと自体は悪いことではない。俺たちはそのまま山道を進んだ。
しばらくすると、くろが突然立ち止まった。
「どうした?」
くろは山の斜面を見つめている。
「モォ……」
なつきがくろを見た。
「人の気配?」
くろが小さく頷いた。俺たちは一斉に足を止めた。
「近いのか?」
なつきがくろに尋ねる。くろはしばらく斜面を見つめていたが、やがて俺のほうを見た。
「人がいることは分かる。でも、どこにいるのかまでは分からないみたい」
「そうか」
俺は周囲を見回した。山の中は静まり返っている。鳥の鳴き声さえ聞こえない。
「念のため、隠れるぞ」
俺たちは近くの木陰に身を隠した。熊も大人しく伏せ、くろも音を立てないように身を低くした。
「くろ、鳴かなくていいからな。敵に気づかれるかもしれない」
俺が小声で言うと、くろは小さく頷いた。
しばらく待っていると、斜面の向こうから枝を踏む音が聞こえた。
ガサッ。
「……誰かいる」
五兵衛が小声で呟く。俺は息を潜めた。
やがて、一人の男が姿を現した。男は周囲を見回している。
「探している」
俺は小声で呟いた。男は俺たちが隠れている場所には気づかず、そのまま山道を進んでいった。
姿が見えなくなったところで、五兵衛が息を吐いた。
「危なかったですね」
「ああ」
俺はくろを見る。
「助かったな」
くろは俺を見ると、嬉しそうに鳴いた。
「モォ」
「よくやった」
俺はくろの頭を撫でる。その隣では、熊も俺を見ていた。
「……お前たち、俺を取り合うなよ?」
二頭が同時に俺を見る。
「モォ」
「グル……」
「……仲良くしてくれれば、それでいい」
なつきが吹き出した。
「正男、大変だね」
「本当にな」
俺たちは再び山道を進み始めた。まだ敵のすぐ近くにいる。俺は気を引き締めた。
「急ごう」
俺たちは山を下りていった。




