第9景:『化学は嘘をつかないか』
素材をかき集めて詰所に戻る。空は相変わらず薄曇りだが、光の角度が少し傾いていた。
この世界にも、時間という概念はあるらしい。
私は、机の上に素材を並べた。
乾燥した植物の粉末。透明な液体の入ったガラス瓶固形石鹸に、防腐剤。
街の住人たちは、誰一人として文句を言わなかった。代金を求める者も、いなかった。
『時計塔が動いてないので、いまは営業しておりません』
その一言で、世界は止まっていた。
――それでも、私は動く。
私は、火口代わりのアルコールランプに火をつける。
道具がなければ、代替する。薬包紙のかわりに包装紙。スポイトの代わりに竹管。実験台などあるはずもないので、木板を渡して作業台を即席で組んだ。
この世界がどれほど奇怪で歪であっても、原子と分子は嘘をつかない。――少なくとも、物理法則さえ同じならば。
私は、手元にある材料をひとつずつ確認した。
加熱。還元。抽出。試薬の反応を、慎重に、かつ迅速に見極めていく。
合成条件は……ギリギリだ。
必要な化学変換を、最短ルートと代替ルートの二重構造で走らせる。
目指すのは、サルファニルアミド。言うまでもなく、合成抗菌薬の原初。
もちろん、ここで作れるのは“類似構造体”にすぎない。不純物も多く、効能は落ちる。だが、何もしないよりは、圧倒的にマシだ。
「先生〜……すごいです……」
スヴェルカが隣で、“頭だけ”を傾けて見上げている。その黒い瞳が、まるで子供のようにきらめく。
「ふだん、こんなことされてるんですか?」
「……普段なら、もっと良い器具を使う」
私は淡々と答えながら、加熱を止めた。
沈殿を抽出し、簡易濾紙でろ過。ろ液を“青花紙”に垂らす。リトマス紙の代替として用意した染紙だ。
……紙が、赤く染まった。――酸性。
副反応による不純物が精製されている証拠。調整は必要だが、反応は成立している。
私は息をついた。
道具も不十分。温度管理も手探り。精製も粗い。だが、それでも――やれる。
この世界の物理法則が、どの程度違うかは未だ不明瞭だ。だが少なくとも、“化学”は通じる。ならば、“医学”も空振りではないはずだ。
私は、最終段階の精製に入る。
精度は問わない。今は、まず効くかどうかだ。
――――
――1時間後。
小瓶に、琥珀色の濁った液体が収まっていた。
底には不純物の沈殿。だが、見た目など問題ではない。
問題は、作用機序が残っているかどうか――それだけだ。
私はそれを、少女の枕元に持っていった。
熱は、まだ下がっていない。皮膚は汗ばんでいて、呼吸は浅い。だが、まだ間に合う。
「これを、飲ませる」
時計守の男が、静かに頷いた。
私は少女の唇をそっと開き、スヴェルカの“浮遊する手”に託したスプーンで、一滴ずつ慎重に、喉へと流し込んだ。
口が反応する。わずかに喉が動いた。そして、少しして――
――呼吸がわずかに、安定する。……苦悶の表情も、すこしだけやわらいだ。
それは、小さな。だが確かな、前進だった。
次の瞬間――部屋全体が、わずかに揺れた。
――ゴォォン……。
音がした。かすかな、歯車の回転音。そして、さらに次の瞬間――
――リン…ゴーン。リン…ゴーン……。
我々の頭上、鈍く尖塔の鐘が鳴った。
止まっていた世界が、ゆっくりと、再び動き始めたような音だった。
スヴェルカが振り返る。
「動いてますよ! 時計が!! 先生〜〜!!」
その瞳からは、隠しもせず、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「……時計塔が、少しだけ、な」
私はつぶやき、肩の力を少し抜いた。
自らの欲望のためだけに磨いた知識。決して美しいとは言えない、数多の経験。冷徹で、打算的で、利己的だったそれらの技術が――
今、小さな命に届いた。
救えるかもしれない。その可能性を、目の前に作り出せた。
それが、たまらなく嬉しく、そして誇らしい。
私は、そういう父でありたかったのだ――私は……この日の為に化学と医学を修めたのだ。
――間違いない。
――第10景へ……




