第8景:『動かない街』
時計塔を下り、扉を開けた。
空は変わらず、薄曇りのまま。輪郭を持たない光が、町並み全体を無時間の白で塗りつぶしていた。
陽は高いはずだ。だが、どの建物にも影が落ちていない。
靴音を響かせて、石畳を降りていく。通りは緩やかにくびれ、その先で枝分かれしていた。
右手の坂を下ると、色とりどりの看板がぶら下がる通りへ出る。
「スヴェルカくん、この街で薬草が手に入る場所は?」
「はい! 先生! 表通りはレストランやブティックが多いです! 薬草や乾燥材を扱っているのは、こちらの裏通り。“黄金小道”です」
私はうなずき、小道へと足を踏み入れる。スヴェルカに案内されながら、細い石畳の通りを歩き始めた。
彼は相変わらず、全力疾走らしい。……しかし、やはり遅い。だか焦っても仕方がない。
道がゆるやかにくびれ、パステルカラーの建物が肩を寄せ合うように密集しはじめる。
背をかがめて、低い石のアーチをくぐる。その先に、腕を伸ばせば両壁に触れそうなほど細い通りが続いていた。
スヴェルカが先を跳ねる。尾がすっと床を滑り、浮かぶ頭が私を振り返る。
「こちらです、こちら!」
私は足を進めた。
傾いた木枠のドア。白とグレーのまだらに剥げた漆喰の壁面。表通りの豪華な作りとは真逆の、素朴な街並み。軒先には乾燥させたハーブの束が吊るされている。
だが、人影はない。
「この辺の店に、人はいるのか?」
「いると思います。先生。でも、働けてはいません」
意味ありげな言葉に引っかかりを覚えつつ、薄緑の漆喰の壁の、小さな店舗の前で立ち止まる。
ガラスの嵌め込まれた扉を押すと、チリン……という小さな鈴の音が店内に響いた。
天井は高くアーチ状の漆喰、一面に黒い腰板。
「……すまない、誰かいないか?」
しばらくして、奥からパタパタと足音。
「あ、はい。何でしょうか?」
焼きレンガの仕切りの奥から顔を覗かせたのは、細身の女性。長い髪を腰で束ね、白いシャツにエプロン。
ふむ……人は、居た。つまり、この街自体は無人ではない。
……いや、やはり"人"とは言えないな。
黒目がちというより、黒目だけの大きな目。頭頂には、湾曲した小さな角が2本。
警戒されている、という気配はない。少し疲れてるような印象は受けるが、口調は柔らかい。
「香辛料や薬草を。なるべく硫黄、またはアニリンに近い芳香成分のあるものが欲しい」
彼女は少しだけ首を傾け、木の引き戸を滑らせて背の高い棚に手を伸ばす。ガラス越しに覗く瓶の中、乾燥したクローブの粒がわずかに動いた。
「そうですねぇ……。これは、染料に使う乾燥クローブ。こっちは燻蒸用のアニス。あと……ナンテンの皮もありますね」
私は瓶を受け取り、ひとつずつ香りを確認する。
――フェノール系の強い芳香。
クローブにはオイゲノール、アニスにはアネトール。どちらも簡易フェノール誘導体として、前駆体足り得る。
「ありがたい。買わせてほしい」
彼女は一瞬だけ、表情を曇らせた。
「あ……いえ、今は働けませんので」
「……それは、なぜ?」
彼女はきょとんとした表情のまま、答えた。
「だって、時計塔が動いていないでしょう?」
意外な回答に、少々戸惑う。
「時計塔……が?」
「ええ、止まってますでしょ?いま」
「……それと、働けるか否かに、どんな関係が?」
「え? 時計が止まってるのに、お仕事なんてできませんでしょう?」
確かに、店内の乳白色の壁には時計はかけられていない。
だが外の太陽は、明らかに真上に近い。感覚で“昼”と判断することは容易だ。
……習慣か宗教か、あるいは法律? だが、それ以上は問わなかった。
これだけ異なる世界だ。いまさら制度を探っても、仕方がない。細かいことは後でいい。
私は、もう一度店の中に目を向けた。棚には、まだ使えるかもしれない瓶が数本。
「お売りはできませんけど……。お急ぎでしたら、お持ちください。お代は要りませんので」
「それは…助かる」
これは、正直に言えば本当に助かる。
私は、ほとんど着の身着の儘。持ち金は心許ないし、そもそも通貨が同じかもわからない。
「感謝する」
数本を選び、スヴェルカの外套に押し込んだ。彼が何も言わなかったので、それで良しとする。
次の店……道具屋。のっぺりとした薄紫の壁、軋む扉。カウンター奥には、黒い鼻と大きな耳の老人。
目が合うと、無言でうなずかれた。それを“許可”と解釈する。
私は、硫黄入りの石鹸と、工芸用アルカリ液を選ぶ。
その次も――染色屋。乾物屋。香料商。
どの店にも人は“居た”。だが誰も、働いていなかった。
それでも私は歩く。選ぶ。集める。必要なのは、少女の命を救う素材だけ。
サルファ剤に必要な芳香族骨格。酸化還元試薬の代替。触媒となる金属塩――
袋に詰めながら、脳内で合成経路を走らせる。
足元で、スヴェルカの影が静かに滑っていた。頭がくるりと私を見上げた。
「……先生」
私は立ち止まる。
「街の人たちも、時計塔が止まって働くことができず困窮しているのです」
スヴェルカが俯き、苦しげな表情を浮かべる。
「だから、どうかあの子を、早く治してやってくださいませんか……?」
そして、彼は口を閉じた(口はないが、雰囲気として)。
通りの奥、遠く時計塔が沈黙していた。その針は、相変わらず真下を指している。
奇妙な話である。
時計塔が動かないから、働けない? そのロジックの異常性に、住人たちは一切の疑問を持っていないようだ。
それでは経済産業……というより日常生活がままならないのではないだろうか。
私はスヴェルカをチラリと振り返った。……彼の言い方も妙だった。
まるで、『あの病床の少女が回復すれば、時計を動かせる』と言った口ぶり。
彼女が時計技師のようには見えないが……。
――だが、考察は後にしよう。奇妙な世界に、奇妙なことが少し増えた。それだけの話だ。
――第9景へ……




