第7景:『繋がらない空間、閉ざされた世界』
――抗生物質。まず、それだ。何よりも先に、それを手に入れなければならない。
私は、詰所の一角に腰を下ろし、白衣の内ポケットから、掌に収まる金属製の円盤を取り出した。
これは、ポータル。我がラボと常時リンクされた、空間転移型接続装置である。
ラボには、最低限の医療器具と薬品がある。たしか、ペニシリン系抗菌薬も数本残っていたはずだ。
なぜ、もっと早く思い出さなかった?
単なる失念……ではあるまい。これは、記憶と意識の接続が未だ完全ではないという証左だ。
この世界が私の思考回路を、部分的にだけ許容しているという仮説すら成立し得る。
私は、装置のスイッチを押す。指先の脈動が、回路を走った。金属板の表層を幾何学模様の回路光が走り、周縁に沿って、青白い光の膜が立ち上がる。
中心に、楕円状の空間歪曲が現れた。
――接続先は、私のラボ。
常に空間座標を保持し、周期的に同調パルスを送信している我が拠点。
だが――歪みは、定まらない。リンク信号が、返ってこない。
これは妨害ではない。干渉や遮断ではない。もっと単純で、もっと致命的な――『その座標は存在していない』という感触だ。
ポータルにとって“座標”とは、物理的存在を示す絶対的応答基盤である。
それが応答しないということは――この世界に私のラボが“初めから存在していない”ということだ。
軸が違う。位相が違う。根本的に、空間の“体系そのもの”が異なる。
私の世界から見れば、ここは絶対に開かない部屋。この世界から見れば、私のラボは初めから存在しない“外”。
断絶している。閉じられている。帰還経路は、現在のところ存在しない。
ポータルは、静かに収束した。楕円は滲み、消え、装置は冷却モードへと入る。
外部から薬を持ち込む手段は、絶たれた。
私は、静かに息をつく。
机の隅へ視線をやる。
眠り続ける少女が、うっすらと眉を寄せていた。頬の紅潮は引かず、掌の熱も落ちていない。
――時間が、ない。
私は、立ち上がる。詰所の机へと向かう。
机上には、散乱した工具。計測器。空の薬瓶。私は、その中に、一筋の可能性を探した。
この世界に無ければ、作ればいい。選ぶべきは、もっとも単純な構造で合成可能な薬剤、"サルファ剤"。
スルファニルアミド系。アニリン骨格とスルファミン酸。反応には亜硝酸ナトリウムと濃硫酸。
合成条件としては、古典的で単純。精製も、簡易な手法で代替可能。――問題は素材だ。
「……調達に出る」
私は、呟くように宣言した。
「調達?」
背後でスヴェルカが、頭部をくるりと回した。その瞳が輝き、尻尾がぴょこんと跳ねた。
「ええ、あの……何か方法が?」
私は、うなずく。
「この世界の素材で薬を合成する」
時計守が、わずかに肩を震わせた。それが驚きか、希望か。判断はできない。
「ここに来るまでの道には、商店が並んでいた。薬局は見当たらなかったが、探せばあるかもしれない。もしくは、香辛料、洗剤、香水、ハーブ……反応させられる物質は、必ずある」
「わたし、ついていきます!」
スヴェルカが跳ねた。胴体がぴょんぴょんと動き、浮かぶ頭がくるくる回る。
私は、その背に、小さく息をついた。
……夢のような生き物。だが、今はそれすらも利用する。命を、つなぐために。
外と繋がらぬこの奇妙な街で、私は、科学の原理で抗うことを選んだ。
……第8景へ……




