第6景:『動いている命』
私は、詰所の扉を押し開けた。
……静かだ。
あれほど巨大な文字盤の裏にしては、静かすぎる。
歯車の軋みもなければ、振動もない。潤滑油の匂いすら漂ってこない。
まるでこの塔が、とうの昔に時間を止めるという選択をしたかのようだった。
だが、その静寂の中、ひとつの音があった。
――呼吸。
詰所の隅、簡素なベッドの上に、少女が横たわっていた。
……いや、“少女”という言葉は、分類としては近いが、定義としては遠い。
顔立ちは幼げ、年齢はおそらく7歳か8歳……いやもっと幼い。
……だが頭部の左右には、異質な突起物。頭の側面に沿うように、螺旋状に巻かれた生物的な意匠。
白を基調としたジュニアドレス。その、ふわりとした裾から覗く足には、明らかに蹄が生えている。
――まるで仔羊と少女の境界を、どこかで誤って縫い合わせたような存在。
人形めいた整った顔は、紅潮して苦悶に歪み、時折ちらりと覗く瞳は、横倒しの三日月型の瞳孔を宿していた。
不自然な色彩が、ほんのりと鈍く光る。
胸から腹にかけては、子供用の薄い毛布。身体のサイズにすら満たない、頼りない布きれが掛けられている。
ミルクティー色の長い巻き毛が、シーツの模様と同化するように広がっていた。
呼吸は、浅く。不規則だ。毛布の下、胸が細かく上下している。
その動きが、今にも止まりそうに見える。
そして、彼女の傍らには一人。
体格は細身の男性。だがその顔は、獣の頭蓋骨そのもの。白く乾いた骨。額の中央には一本の角。
……いや、違うな。あれは鼻腔に沿って立ち上がる、矢状稜だ。
片目には、眼球の代わりに小さな秒針付きの懐中時計が埋め込まれていた。それがカチ……カチ……と、静かに時を刻んでいる。
おそらくはこの部屋の主。すなわち時計守。
彼は振り向き、私に無言で頭を下げた。
「先生……。申し訳ありませんが……診てやっていただけますか」
声は低く、くぐもっていた。
私は、わずかに逡巡したあと、うなずいた。
私は医師ではない。医学知識は本職に及ぶべくもない。
だが、命を扱った経験ならば、嫌になるほどある。
――そう。私はかつて、罪を犯した。
始まりは、たったひとつの望みだった。
それを叶えるためならば、手段など選ばなかった。必要な知識は片っ端から貪った。生物学。魔術。錬金術。工学。そして、魂魄理論。
その果てに、私は命を創り出すという禁忌にまで手を伸ばした。
造り出したのは、幾人もの異形の少女たち。翼を持つ者。人ならざる器官を持つ者。果てには、人の形からさえ外れた者。
観察し、解剖し、改造する。目的に届かなければ失敗作と切り捨て、また次を造る。ただ己の望みへ近づくための、研究素材として扱っていた。
彼女たちは、いわば私の娘たち……。今さらそう呼んだからといって、犯した罪が許されるわけではない。
――けれど、そんなことを繰り返すうちに、医学にも多少の心得を持つようになっていた。
私は、ベッドへと歩み寄る。
少女の頬は赤く、熱が篭もっていた。耳の先まで火照り、汗もひどい。
私は額に手を当てた。……高熱。かなりのものだ。
ドレスの象牙色のボタンを外す。ミルクティーベージュの刺繍が施された布地の奥、小さな胸部を露わにする。
机の上に転がっていたガラスのコップを手に取り、逆さにして胸に当てる。
……聞こえる。
心音は、速く。不規則。拍動間隔に乱れがあり、心筋が過負荷を起こしている。リズムが逸脱し、音が跳ねる。まるで心臓が落ち着きなく跳ね回っているようだった。
ドレスのパフスリーブに手をかけ、捲ろうとした……が、袖は“服”ではなかった。これは、彼女自身の体から生えた羊毛だ。
……そのまま、手を取る。
指先の爪の根元に、紫色の小さな点状出血。これは、ジェーンウェイ病変の初期兆候……か?
掌を軽く押すと、彼女の眉がピクリと動く。……やはり、圧痛がある。
さらに発赤と腫脹を伴う、触れるとわずかに硬い結節、オスラー結節。
私は息を整え、心中で診断を下す。おそらく……いや、やはりそうだ。
――感染性心内膜炎。
細菌が心臓の内膜に付着し、弁膜を破壊する。そこから血流へと菌塊が流れ、塞栓を引き起こす。敗血症性ショック。多臓器不全。死。
このままでは――数日ももたない。
「……ふむ。かなり重症だな」
私は静かにそう告げ、問いかける。
「抗生物質は? 投与手段はあるか?」
時計守は顔を伏せ、低く答える。
「ありません。この街には、そういった薬は……存在しません」
静かに、スヴェルカの声が続いた。
「ですので……先生の知識が、必要なのです」
私は、少女の小さな掌を包み込んだ。
熱に浮かされた細い指が、わずかに震えている。皮膚の奥で、微かな鼓動が伝わってくる。
――ここがどこであれ、もはやそれも些末だ。
仮想空間でも夢でも幻でもいい。だが、この命は確かに、ここに在る。
ならば、私にこの子を見捨てるという選択肢はない。なぜなら、私は娘を持つ父だからだ。
血の繋がりなど関係ない。私はこの手で、幾人もの娘を造ってきた。
彼女たちは、魂を与えられた命として今を生き、常に私の心の中に在り続けている。
――その記憶は、失われていない。それが、何よりの救いだった。
この、何処とも知れない世界で、ようやく“自分”を取り戻したような安心感があった。
――私は、思考を切り替える。
この世界の正体は後回しだ。まずはこの命を守る。
薬がないなら、作ればいい。私は、“父”である以前に、“研究者”なのだから。
――否、逆だ。私は、娘を持つ父としてここにいる。
命を預かる者として。魂を信じる者として。今はそれ以外、考えるべきことなどないのだ。
――第7景へ……




