第5景:『動いていない時計』
私は、石造りの螺旋階段をひたすら上っていた。
塔の内側はひんやりと冷たく、空気はわずかに湿っている。
外界の光は差し込まず、響くのは私の足音と――スヴェルカの尻尾が擦れる、かすかな布の音だけだった。
階層ごとの床面は狭く、中央には空洞が貫かれている。
おそらくは、錘を吊り下げる竪穴構造。つまり、この塔は重力式の時計塔だ。
壁面には、朽ちかけた木製の導軸がはめ込まれている。歯車もカムも見当たらないが、これは単純な巻き下ろし駆動型の調速装置であろう。
構造を観察しているうちに、思考の輪郭が明瞭になってくる。
――ようやく、だ。
私の脳は、ようやく“夢見心地”の水面から顔を出しはじめていた。認識が収束し、分析機構が再起動する。私は再び、科学者としての自己定義を取り戻しつつあった。
――――
まず、論点はこの街の実在性である。
街並みは不自然だ。
構造物は未完成。生活の痕跡だけが残されている。人の姿は見えない。だが、気配はある。
そして何より――電力が存在する。
我々の世界に存在しないはずの“トラム”が、明確に稼働していた。
これは重大な齟齬だ。
さらに、スヴェルカ。
あの案内人と称する異形の存在。
首がない。手足もない。なのに、言語で意志を伝達している。しかも、その言語は我々と同一だ。
あれは――何だ?
合成生物か? 擬似生命体か?だが、見たことも聞いたこともない形態だ。
私の知識がこの世界のすべてを網羅していると思うほど、私は傲慢ではない。
しかし、あれが既知の存在とは到底思えない。
あれが、この世界の“自然な生物”であると仮定するならば……。
……ひとまず、可能性を整理しよう。現状で思いつく可能性は五つ。
――まず、真っ先に思い至るのは、幻覚、または明晰夢。外界との入出力は遮断されつつも、思考も保たれ、感情制御もすべて自発的な脳内処理。
だが、これだけの統合的知覚が、個人の脳内で完結するだろうか?
視覚・触覚・嗅覚・平衡感覚に至るまで、全感覚系が矛盾なく噛み合っている。
これは単なる夢にしては、完成度が高すぎる。脳内補完ではなく、外部環境が存在していると見てよい。
――第二の仮説は、我々が第二基底世界と呼ぶ隣接現実。
我々の暮らす第一基底世界。すなわち、魔術と精霊が自然法則の一部として存在し、文明が魔導技術を基盤に発展した世界。
その第一基底と物理法則をほぼ共有しつつ、文化的・構造的に若干の差異があるパラレル構造。
魔導技術が存在しない代わりに、科学技術は我々より遥かに発展している。
主要建造物の多くは金属とコンクリートで造られ、文明基盤は、石油と石炭。
そして――電力。
トラムの動力源は電力。意匠も文化様式も、第二基底世界の都市に酷似。
あちら側からの“漂流物”が偶発的に転送された例もある。ならば、逆流もあり得ると考えるのが自然だ。
あるいは、こちらの世界の集団失踪事件や、消失事件の真相のいくつかは、それかもしれない。
可能性としては十分ある。
だが、問題はスヴェルカだ。
あちらにも“喋る首なしイタチ”などいなかったはずだ。
――第三の仮説は、精霊によって構築された精神世界。
精霊の中には、第一基底に居ながらにして、第二基底世界を観測できる者がいる。
また、ごく一部ではあるが、自らの記憶や観測情報をもとに、限定的な異空間を形成する個体も確認されている。
この街は、その二つの性質をハイブリッドで併せ持つ精霊に再現されたもの。
だが、都市ひとつをここまで精緻に再現した例は、私は知らない。
――第四は、未発見の異世界もしくは、非連続基底。いわゆる“別の宇宙”。
文明体系、生命体系、物理体系すら異なる世界。
我々の観測が及ぶ"宇宙"など、無数にある泡沫の一つにすぎない。
物理法則すら異なっていても不思議はない。なら、景色や生物が違っている事など些細。むしろ似ている事の方が不自然だ。
スヴェルカは、そこの住人。
ただ、言語と道徳の概念が通じている以上は、それは偶然と言うより、何らかの迎合状態にある世界だろう。
――そして、第五に。私が、私ではない可能性。
つまり、ここが仮想環境であり、私という存在は、そこに再現された模倣人格である可能性。
この記憶も、知識も、人格も。“本物”の私から抽出されたコピーか。あるいは、“本物”など初めから存在せず、私は最初から作られたキャラクターであるかもしれない。
ならば、脱出などという概念自体が幻想であることも想定しなければならない。なぜなら、“どこへ帰る”つもりなのかを定義できないからだ。
――――
……さて。
次は、私が“ここへ来た経緯”である。
事故か? 実験か? 拉致か?あるいは、自らの意思による転移か?だが、どれにも手応えがない。
“無理やり連れてこられた”感覚は、なぜだか希薄だ。だが、それも信用ならない。
もし、記憶が選択的に遮断されているとすれば?
精神干渉。記憶封鎖。催眠挿入。私の主観など、いくらでも欺ける。
自我とは、外部記憶装置のないデバイスに等しい。そこに情報を書き込まれた自覚がなければ、本人は自分が壊されていることすら気づけない。
――――
そこまで思考が進んだとき――
「先生! こちらです! 早く!」
塔の上から、スヴェルカの声が跳ね返ってきた。
私は足元を確かめ、さらに数段を踏みしめる。
……終点が見えた。
スヴェルカが、扉の前にいた。尾の先で、ノブをちょん、と押す。
「先生。おつかれさまでございます。どうぞ……こちらへ」
カチャリ、と音を立てて、扉が開いた。
その先に広がっていたのは――巨大な時計の、文字盤の裏側。すりガラス状の盤面から、柔らかな光が漏れている。
だが、振動はない。音もしない。時計は止まっていた。
文字盤の裏構造は、金属と木材のハイブリッド。足場と階段が組まれており、更に奥には古びた扉が一つ。
装飾はなく、材も粗い。おそらく、時計塔守の詰所であろう。
スヴェルカが静かに一礼する。私は無言のまま、小部屋の扉を押し開ける。
思考を抱えたまま。
答えの出ぬ仮説を脳内に積み上げたまま――
私は、次の領域へと、足を踏み入れた。
――第6景へ……




