第4景:『誰もいない昼の街を、誰でもない者と歩く』
私は、奇妙なその生き物のあとを、黙ってついていった。
尾が、濡れた石畳をすべるように擦れていく。その歩き方は、なんというか全力だった。
「急いで、急いでっ!」
甲高く、反響する声が、白いアーチの下で跳ね返る。
そのたび、その生き物の頭部が、胴体の上で“ふんわり”揺れる。
腕はない。足は短い。頭は浮いている。
それでも本人にとっては、これは“走っている”という行動にカテゴライズされているらしい。
……だが、やや早足で余裕についていけているのだから、なんとも心許ない。
「こっちですこっちっ、間に合わないと一大事です!」
走るというより、まるで坂道を下るスロープ人形。
いやむしろ、パワプロくん。
……なんか可愛い。
彼の尻尾がぺたりと石畳をなぞり、そのたびに細かな音が鳴る。
私たちは、幅一間ほどの路地を抜けていく。両脇には、剥き出しの煉瓦や漆喰塗りのファサード。窓のない壁が続き、空は細長く切り取られていた。
人の気配はないが、空気は生きている。
果実酒。焦げた黒パン。洗い立ての布から立ちのぼる石鹸香。生活の残り香だけが、この街の“居住性”を証明していた。
「こっちこっち!こっちです!!」
目の前の生物が角を曲がり、薄暗いトンネル状のアーチをくぐる。
その先、視界がふいに開けた。
塔を中心に据えた広場と、大通り。そこは、まるで演劇の舞台のようだった。
広い大通りの左右を挟む、石造りの家々には、鋭く尖った屋根が並び、風に揺れる看板はどれも無人のまま、観客のいない芝居を続けている。
青銅の獅子像が、噴水の縁に腰を下ろしていた。石畳の目地に咲く花だけが、陽光をまっすぐに受け止めていた。
――静かだった。
風の音はない。だが、遠くから波の音がかすかに届く。建物の影に隠れて見えないが、おそらく近くに海がある。
私はふと、空を見上げた。
雲は薄く、陽の輪郭が透けていた。光源の位置は高く、おそらく正午。あるいはその前後。
苺のパイの甘い香りが、菓子屋のバルコニーから漂っている。
八百屋には果物籠が置かれていたが、蝿もいない。パン屋の奥には、小さなカウンターが見えていた。
だが店内にも、やはり人影はない。
工事中らしき建物には、途中で積まれたままのレンガ。斜めに傾いた手押し車。乾いた道具たち。
まるで、時間だけが停止してしまったようだった。
ほんの一瞬前まで、確かに人がいた。
――そんな痕跡だけが、空間に取り残されている。
それでも街は、音もなく回転し続けているように見えた。
私は、時計塔へと視線を移す。薄い黄土色の壁に、緑青を帯びた尖塔。その頂には、まるで天に釘を打ち込むような鉄製の矢。
塔は、静かに街を見下ろしていた。
私は、目を凝らす。
……針が、変だ。
長針も、短針も、真下を向いていた。6時半、ということになるのか?
いや、そんなはずはあるまい。これは時刻ではなく、ただ“下”を指しているだけだ。
私は歩きながら、少しずつ自我の感触を取り戻していた。
記憶はある。知識もある。肩書きも思想も、技術体系も残っている。
私は、かつて、たったひとつの目的を叶えるために手段を選ばず研鑽を重ねた研究者だ。
魔術、化学、医学、生命工学、果ては呪術まで。役に立つなら分野の境など知ったことではなく、必要なものは片端から学び、試し、己のものとしてきた。
結局、その目的はいまだ果たせていない。にもかかわらず私は懲りもせず、今ではまた別の目的を見つけ、そちらへ向かって全力で突き進んでいる。
そこまでの自分は、きちんと思い出せる。
何をしてきたかも、何をしようとしていたかも……
だが――直前の記憶が、ない。
この街に来た理由も、トラムに乗った経緯も不明だ。誰が私を呼んだのか、あるいは――私は自分で来たのか。
……思い出せない。
「ふむ……キミは」
私は、問いかける。
その生き物が、商店の裏手を抜ける石階段を必死で登っていた。前足がないため、尾を使ってぴょんぴょんと跳ねるように進む。
「……キミは、何者なのかね?」
彼は、胴体を前に向けたまま、頭部だけをくるりとこちらに回した。
「申し遅れました!」
口は動かない。だが、声は確かに響いた。
「スヴェルカと申します。案内役です! ……ですが、今は火急ですので、詳しくはのちほど!!」
ふわりと頭が回転して、元に戻る。
――どこかおかしい。だが、不思議と焦燥感や苛立ちはない。
足音が止まる。スヴェルカが、階段の上でこちらを待っていた。
その背後には時計塔。やはり、そこが目的地だ。
――第5景へ……




