第3景:『降車駅』
金属が擦れる、鈍い音。
トラムがブレーキをかけ、速度を落とす。レールの継ぎ目が軋み、重たげな車体が、わずかに身体を揺らした。
私は立ち上がる。扉の向こうに、駅のプラットホームらしき影が見えた。
が――
ふと、ひとつの疑問が浮かぶ。
私は、運賃を……払っただろうか?あるいは、切符は?
だが、こういうときの正解は一つだ。とりあえず、ポケットを漁ってみることである。
ごそ、ごそ……。
手探りの先に、紙の感触。取り出したそれは、柔らかくて薄い――緑色の紙片だった。
古びた駅名票のような色合い。四隅は丸く擦り減っており、長く人の手を渡ってきたような痕跡にも思える。
印刷された文字は、ところどころ掠れて読めない。
“乗車駅”の欄は空白……。
“Cíl”の欄には、手書きで「Srdce」と走り書きられている。
……スルドツェ、駅名だろうか。確か、意味は――
――そこで、背後に視線を感じた。
私は、ゆっくりと振り返った。
運転席。手すりの向こう側。そこに、“それ”は座っていた。
帽子。制服。白手袋。両手は静かに操縦桿に添えられたまま、微動だにしない。
だが――顔が、ない。
正確には、顔のあった位置に“黒い霧”が立ちこめている。そして、その中心に、青白いビー玉のような眼球だけが二つ、浮かんでいた。
瞳孔はない。瞬きもしない。それでも私は、あれが私を見ていることだけは、なぜか確信できた。
私は、手にした紙片を、反射的に握りしめた。
すると――運転士は、待っていたかのように、白手袋の手を差し出してくる。
指先が、こちらを静かに、催促する。
私は……渡した。何も言わず、ただ黙って。
運転士は、紙片を受け取ると、滑らかな動きで回収箱に収めた。言葉はない。表情もない。顔もない。
なのに――うなずいたような気がした。いや、私が勝手にそう解釈しただけかもしれない。
その瞬間、扉が音もなく、開いた。私は、足を一歩、外へと踏み出した。
――そのとき。
「先生! お待ちしておりました、さあさあこちらへ!」
声。明るく、はきはきとした、高めの声。私は、条件反射のように振り向いた。
そして、“それ”を見た。奇妙な生き物だった。
腰ほどの高さの身体。長く細い胴体。その上に、ふわりと浮かんだ“頭部”。
――首が、ない。
だが、不安定さは皆無だった。まるで最初から「そういう構造として」設計されていたかのように、その頭部は、まったく自然に、そこに“浮かんでいた”。
黒い瞳が、私をまっすぐに見つめる。ピクリと震える渦巻き型の片耳が、せかすように動く。
「お急ぎください! 時間がないんです!」
同時に、空中に浮かぶ“手”がひとつ。肘も肩もない、“手”だけが、こちらを手招いている。
私は一瞬、その構造を分析しようとした。――どうやって浮いている? どうやって喋っている? そもそも重力は?
だが、思考よりも早く、あの“手”がくるりと反転し、尾のように長い影が、ホームの端を滑ってゆく。
「こちらです、先生!」
彼――と呼んでよいのだろうか?
あの存在は、私を「先生」と呼んだ。どうやら、私のことを知っているらしい。
しかし、私は彼を知らない。少なくとも記憶にある限りは、顔見知りではない。
当然だ。私は彼のような生物を見たことがない。
彼が手招く先、その細い路地の先には、街が続いている。石畳が、視線の奥へと続いている。
家々の隙間を縫って、緩やかに曲がる細い道。その先には――まだ何も見えない。
だが私は、この街の奥へと踏み出している。
なんの準備もなく。理解も、確証も、武装も、何一つないまま――。
――第4景へ……




