第2景:『見知らぬ街』
――私は、ひとりだった。
トラムの車内には、他に乗客の気配はない。
あるのは、車輪が石畳を噛む微振動、連結部が時おり呻くように軋む音、そして、外から届く波音だけ。
それらが世界の稼働音として、静かに空間を満たしていた。
天井灯が、ぱち、と音を立てて明滅する。
私はその揺れる光を見上げながら、しばらく天井を凝視していた。
――ぼんやりしていた。
思考回路は、まだ完全には復旧していない。意識の奥には、感情を鈍化させるような霧。
……というより、この思考が“本当に私のもの”かどうか、その検証すら完了していない。
それでも、輪郭だけは戻りつつある。
――私は、誰かだった。
記憶には構造があり、知識体系が存在し、論理的推論を行う手続きにも精通している。
そう、私は科学者。科学と魔術をハイブリッドで修め。数多の知識を持ち、多くの異名を持つ孤高者。
……そのはず、である。
だが、そこから先は、白い。
なぜここにいるのか。いつから、どこから、何のために――。
記憶の断面だけがぼんやりと曖昧で、連続性がない。
そして、窓の外を眺めたとき――私は、思ったのだ。『……懐かしい』と。
しかしそれは、決して自然な感情ではないはずだ。
外の街並みは、どこか作りかけだ。
トラムは、傾斜地を下るように進んでいる。段差に沿って家々が並ぶが、そのいくつかは建設途中である。
屋根は瓦を待ち、壁面には未施工の煉瓦。窓は枠だけ。鉄骨の躯体が露出し、足場が地面に転がっている。
組立途中の鉄塔が、空へ向かって未完の手を伸ばしていた。
視界を流れていくその光景は、まるで都市という舞台装置の裏側を覗かされているかのようだ。
しかし一方で、生活の痕跡もある。
街路樹は等間隔に整えられ、洗濯物がぴんと張られて風に揺れる。水路には配達用の台車。外灯には、点灯済みのランプ。カーテンが、風とともに微笑む。
にもかかわらず、人影は――ない。
街は、生きようとしている。けれど、まだ産声をあげていない。
そんな印象。
トラムがカーブし、視界が開ける。
私は、ふと身を乗り出して、遠くを見た。
……空が見えた。どこまでも淡く、薄曇りの空。青とも白ともつかない、塗り残しの絵具のような空色。
そして、それが視界に映る唯一の自然物だった。
街も、街路樹も、傾斜も人工的な印象を受ける。水路はあるが、川はない。階段はあるが、未整備の丘陵はない。
そして、波音。見えない海の気配だけが、街に満ちている。
やはり、どこかおかしい。なにか違和感がある。
私は立ち上がり、手すりに手をかけた。
そして、その瞬間だった。
そのとき初めて決定的な“誤り”に気づき、わずかに震えた。
――今、私が乗っているこの乗り物。
トラム……? ……トラムだと?
違う……違う違う違う。
我々の世界の技術は、魔導を基礎としているはずだ。トラムなどという交通手段は存在しない。
そして当然、私はトラムになど乗ったことはない。あるはずがない。
それだけではない。
しかも、この形状。この装飾。こちらの世界では、みたことのない様式。
トラムが坂を下り、カーブを曲がる。私の身体もゆっくりと揺れ、車内の手すりに手をかけたそのとき――
視線の先には、ありえないものがある。
――電線。
おそらく、この車両のトロリーポールは、その架線に接触している。
そう、このトラムは電力で動いている。……だが、それはおかしい。
――この世界には、電力網など存在しない。
私の知る文明は、精霊と魔術によって成り立っている。街を照らす灯りも、軍そのものの運用に至るまで。根にあるのは魔力と、それを扱う術式だ。
蒸気を動力として利用する発想すら、未だ文明の基盤にはなっていない。
ましてや、空中に張り巡らされた線から力を受け取り、鉄の車体を街中で走らせる技術など――私の世界には存在しないし、発展のしようがない。
魔術を使えば済む話だからだ。
だから、この街にも電気はないはずなのだ。
それでも――動いている。音がし、走行し、灯りすら灯っている。
私は、静かに震えた。
ここは“知らない街”ではない。"知らない世界"だ。
私は、異なる現実の中にいる。
なのに、どうして。この街が、どこか懐かしく感じられるのは。
――チリン……。
小さな鐘の音が鳴った。
トラムが減速し、視界の先に駅らしき構造物が見えてくる。
私は、駅の名を知らない。看板は見えない。標識もない。
だが、わかっていた。……ここが、私の降車駅だ。
理由など、あとでいい。今はただ、足を下ろすことだけが正しいように思えた。
――第3景へ……




