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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第一旅程『Tramvaj』
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1/86

第1景:『街は、夢に乗ってやってくる』

【YouTubeでPV公開中!】

挿絵(By みてみん)


https://youtu.be/3smngUI29OM?si=c-cnUycIV3Bc8fwe


 がたん、ごとん。がたん、ごとん……。


 音というには静かすぎる。

 これは振動だ。低周波の波動が床材を介して脊椎を震わせ、骨盤の奥へと染み込んでくる。

 その律動が、どこか遠くを叩いている。

 そんな感覚。


 木材の揮発油。鉄の酸化膜。潤滑油に濡れた真鍮の匂い。わずかに鼻孔をくすぐるその香気は懐かしい。


 ――いや、違う。


 知らないはずなのに、懐かしい気がする。

 記憶のどこにも該当しないのに、“知っている感覚”だけが先にやってくる。


 静かだった。

 耳を澄ませば、どこかで波が引いていくような――いや、波の音?

 外には潮騒のような響きが降ってきていた。


 私は、ようやく目を開けた。


 ――木造の車室。艶を湛えるニスの天井。

 窓枠の意匠は、いかにもアール・ヌーヴォー的な曲線装飾。真鍮製の手すりは、経年に磨かれて鈍く輝いている。


 そして、その空間の中に、自分の身体がある。

 指が動く。肘が曲がる。だが、それが私自身の意志による運動なのか、確証はない。

 まるで――誰かの記憶の中の自分を遠隔操作しているような、不思議な遅延。


 ……ふむ。これは――古い。


 時代遅れというより、意図的ですらある。

 この車内全体が、過去という記号でコーティングされている。


 だがそれが、どうしようもなく心地よい。


 私は、しばらくのあいだ――

 何も考えていなかった。


 ……いや、違うな。


 考えようとすると、言葉になる前に意識がほどけていく。

 霧の中に手を突っ込んで、指先だけが濡れて返ってくる。


 “自分が今、何をしていたのか”。“どこにいて、なぜここにいるのか”。そのすべてが、ぼんやりと靄に包まれている。


 私は、座席の革張りに身を預けた。

 弾力の失せたクッション。革のひび割れが皮膚に伝わる。そこへ私の体重がじわりと沈んでいく。


 ……ようやく、肉体と意識の境界が再接続されはじめた気がする。


 ――がたごと、がたごと。


 音が変わった。少しずつ高く、細かく。

 ……坂を、登っているのか。


 私は、窓の外を覗いた。

 最初は視界が歪んでいた。焦点が合わず、空間の深度が確認できない。


 そして、やがて見えてくる。


 乳白色の壁面が続く家並み。連なる赤煉瓦の屋根。角を曲がった先の菓子屋には、ステンドグラス。大通りには、公会堂風の建物が並び、その外壁には細密な漆喰の浮彫。


 ――まるで、誰かが“理想的な古都”を記憶だけで復元しようとしたような街並みだ。


 景色は広場へと差し掛かる。

 石畳の道が曲線を描き、階層的に続いていく構造。都市構造学的には“リボン型複層街区”とでも呼べそうな見事な造形。


 そして、遠くに小さく時計塔がみえる。直線的なボディラインに、鋭角の屋根と尖塔。

 その塔は、静かに、ただ静かに立っている。


 ……針は遠くて見えない。

 止まっているのか、ゆっくり動いているのか、それすらも定かでない。

 

 人影は……ない。


 道はある。建物もある。カフェの扉は開いている。

 ベンチの影が風で揺れ、洗濯物が踊る。

 だが、誰もいない。


 それでも、カーテンが揺れ、花壇の花がこちらを見ていた。

 いや、花弁の向きが揃っているだけなのだが、こちらを見られている気さえした。


 私は、自分の手を見る。


 動く。

 皮膚がある。体温がある。

 神経伝達が、ようやく“私”にまで届いている。


 ……思考が、戻ってきた。


 だが、ここは知らない街だ。そして私は、やっと気づく。

 この揺れ。匂い。音。そして風景。これは、路面電車……トラム……か?



 私は、走っている。

 この郷愁に染まった漆喰造りの街。その道路に敷設された線路の上をトラムに乗って進んでいるのだ。


 ――チリン……。

 

 小さく鐘が鳴った。


 私は、自分が今ここにあることを受け入れ始めた。だがここにきて、次の疑問がようやく立ち上がる……。


 ――私は、どこへ向かっている?


 ――チリン……。


 トラムは、緩やかにカーブを描いて。未知の目的地へと、確かに進んでいた。



――第2景へ……

挿絵(By みてみん)

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