第1景:『街は、夢に乗ってやってくる』
がたん、ごとん。がたん、ごとん……。
音というには静かすぎる。
これは振動だ。低周波の波動が床材を介して脊椎を震わせ、骨盤の奥へと染み込んでくる。
その律動が、どこか遠くを叩いている。
そんな感覚。
木材の揮発油。鉄の酸化膜。潤滑油に濡れた真鍮の匂い。わずかに鼻孔をくすぐるその香気は懐かしい。
――いや、違う。
知らないはずなのに、懐かしい気がする。
記憶のどこにも該当しないのに、“知っている感覚”だけが先にやってくる。
静かだった。
耳を澄ませば、どこかで波が引いていくような――いや、波の音?
外には潮騒のような響きが降ってきていた。
私は、ようやく目を開けた。
――木造の車室。艶を湛えるニスの天井。
窓枠の意匠は、いかにもアール・ヌーヴォー的な曲線装飾。真鍮製の手すりは、経年に磨かれて鈍く輝いている。
そして、その空間の中に、自分の身体がある。
指が動く。肘が曲がる。だが、それが私自身の意志による運動なのか、確証はない。
まるで――誰かの記憶の中の自分を遠隔操作しているような、不思議な遅延。
……ふむ。これは――古い。
時代遅れというより、意図的ですらある。
この車内全体が、過去という記号でコーティングされている。
だがそれが、どうしようもなく心地よい。
私は、しばらくのあいだ――
何も考えていなかった。
……いや、違うな。
考えようとすると、言葉になる前に意識がほどけていく。
霧の中に手を突っ込んで、指先だけが濡れて返ってくる。
“自分が今、何をしていたのか”。“どこにいて、なぜここにいるのか”。そのすべてが、ぼんやりと靄に包まれている。
私は、座席の革張りに身を預けた。
弾力の失せたクッション。革のひび割れが皮膚に伝わる。そこへ私の体重がじわりと沈んでいく。
……ようやく、肉体と意識の境界が再接続されはじめた気がする。
――がたごと、がたごと。
音が変わった。少しずつ高く、細かく。
……坂を、登っているのか。
私は、窓の外を覗いた。
最初は視界が歪んでいた。焦点が合わず、空間の深度が確認できない。
そして、やがて見えてくる。
乳白色の壁面が続く家並み。連なる赤煉瓦の屋根。角を曲がった先の菓子屋には、ステンドグラス。大通りには、公会堂風の建物が並び、その外壁には細密な漆喰の浮彫。
――まるで、誰かが“理想的な古都”を記憶だけで復元しようとしたような街並みだ。
景色は広場へと差し掛かる。
石畳の道が曲線を描き、階層的に続いていく構造。都市構造学的には“リボン型複層街区”とでも呼べそうな見事な造形。
そして、遠くに小さく時計塔がみえる。直線的なボディラインに、鋭角の屋根と尖塔。
その塔は、静かに、ただ静かに立っている。
……針は遠くて見えない。
止まっているのか、ゆっくり動いているのか、それすらも定かでない。
人影は……ない。
道はある。建物もある。カフェの扉は開いている。
ベンチの影が風で揺れ、洗濯物が踊る。
だが、誰もいない。
それでも、カーテンが揺れ、花壇の花がこちらを見ていた。
いや、花弁の向きが揃っているだけなのだが、こちらを見られている気さえした。
私は、自分の手を見る。
動く。
皮膚がある。体温がある。
神経伝達が、ようやく“私”にまで届いている。
……思考が、戻ってきた。
だが、ここは知らない街だ。そして私は、やっと気づく。
この揺れ。匂い。音。そして風景。これは、路面電車……トラム……か?
私は、走っている。
この郷愁に染まった漆喰造りの街。その道路に敷設された線路の上をトラムに乗って進んでいるのだ。
――チリン……。
小さく鐘が鳴った。
私は、自分が今ここにあることを受け入れ始めた。だがここにきて、次の疑問がようやく立ち上がる……。
――私は、どこへ向かっている?
――チリン……。
トラムは、緩やかにカーブを描いて。未知の目的地へと、確かに進んでいた。
――第2景へ……




