第79景:『夜の呼吸、灯りの前で』
トラムは、ゆっくりと登っていく。
カタン、カタンと繰り返す走行音が、街の眠気を撫でていた。
車窓の外には、橙と群青が混じった空の名残が、建物の輪郭に沿ってしずかに降りていた。塔の影がゆるく揺れて、歩く人々の足取りも、どこか輪郭を曖昧にしている。
――この街の夜は、空気がやわらかい。そう思えるようになったのは、ここに来て何日目あたりだったか。
私は頭を背もたれに預け、目を閉じるでもなく閉じないでもなく、まぶたの裏のような空を見つめた。
パムェトナに話した通り――私には、三つの選択肢がある。
一つ。あの子に嘘の希望を与え、外の世界へ導くこと。その場限りの救いを装って、彼女を延命する。
やがて真実を知ったとき、彼女は私を憎むだろう。……だが、それでも構わない。娘に恨まれるのは、慣れている。というか、それが通常運転だ。
むしろ温かく迎えられた日には、即座にこう思う『あ、これ……最初に喜ばせてから突き落とすやつだな』
そして、私はそれに全力で乗っかる。
恨みをぶつけられる → 死にかける→ 父性が深まる。この三段階こそが、我が物語のスタンダードなのだ。
初手即殺意。それがデフォルト。――そう、実家のような安心感である。
二つ目。真実を伝えて、選ばせる。
この街と共に消える道か。あるいは、外で生きていく道か。
どちらにせよ、彼女には……重すぎる選択だ。それでも、“選ばせる”ことこそが、尊重なのだと信じている。
だが……。この街に生きる者たちにとって、前者の選択は死刑宣告でもある。
パムェトナがあれほど静かに、しかし深く、言葉を飲み込んだのは……そのせいだ。
――そして、三つ目。別の道を探す。
私には、まだ知らない情報が多すぎる。エモツェたちの知識、記憶、この街の構造のすべて。
それを、明日の会合で交え、話し合う。ひとりでは辿り着けない答えを探し、ギリギリまで足掻く。
あの子の望み通り、“この街が消えず、このまま維持される方法”あるいは、“二つの選択肢を諦めた先に残る、なんらかの奇跡”
そんなものが、どこかに……。
トラムが、スルドツェ駅に滑り込む。扉が開くと、外気が、少し冷たくなっていた。金属と油のにおいが交じる、無人のホームを抜けて、石畳の坂を登る。
コツ、コツと靴音が響くたびに、胸の奥で重たくなった選択肢たちが、ひとつずつ、形を持っていく。
階段を登りきると、静かな塔の側面が現れた。最上階まで登ると、詰所の灯りが、奥でまだ点いていた。
「……ただいま、というやつかな……」
私は小さく笑って、手を伸ばす。軽くノックしてから、扉を押した。その瞬間――
「せんせぇぇぇぇぇえええっ!!」
丸い頭が宙から飛んできた。慣性のまま頭突きを食らい、私はその場で半歩よろける。
「おや、スヴェルカくん。インスティナ女史から解放されていたとは」
「先生……っ!」
スヴェルカはしっぽをピンと立てて、感極まったように浮遊している。
「インスティナさんに、ちゃんと交渉したんです! で、明日から“通い勤務”にしてもらいました!」
「……ああ、なるほど。勤務中に度々スルドツェに向かって頭を掲げられるより、通った方が合理的という判断か」
「はいっ! 往復3時間ですけど、頑張ります!」
「通勤時間だけで、サラリーマンの悲哀を背負ってしまったのだが……?」
「ターミナルでは、駅ナカダッシュです!」
「それは、いわゆる“心をどこかに落としてしまうパターン”では……?」
「はい!心というか、頭を落としそうになりました!」
スヴェルカが笑顔で浮いている間に、背後から、ふ、と一筋の影が差した。
「……お戻りに」
「む」
白いガイコツ頭の男が、静かに立っていた。
姿勢は正しく、声音も変わらず。だが、秒針の回る眼の奥に、ほんのわずかな揺れを感じた気がした。
「変わりはないかね?」
「はい。彼女も街も、概ね……いつも通りです」
「……概ね、というのは?」
「今夜のスヴェルカは……かなり浮かれておりました」
「なるほど。情報の正確性に問題はないようだ」
「そこ、ナチュラルに報告対象にしないでくださいよぉ!」
口をとがらせて抗議するスヴェルカの声に重なるように、ふたりの背後から、とてとてと軽い足音が続く。
「おかえりなさいっ!」
私の目の前で止まり、少女はまっすぐこちらを見上げていた。
両手を前で揃えて、体をぴょこりと傾ける。螺旋の羊角が傾き、ふわふわの髪が光を受けて宙にゆれた。
「まだ眠っていなかったのかね。……“眠いのを我慢して、パパの帰りを待つ娘”。フィクションの中だけの架空の存在だと思っていたが」
「"おかえり"を言っただけで、実在そのものを疑われるなんて、“プロットありきの異世界モノ”みたい!」
胸の前で指を組み、うっとりと呟く。
「ちゃんと伏線を回収して、結末を迎えた物語……。きっと、どこかに本当にあるって、わたし……信じてるの」
――ふむ、なんと尊いやり取りであろうか。
スヴェルカが後ろで小さく欠伸をして、ゆらりと尻尾を垂れる。それを見て、私はゆるく手を振った。
「キミは、もう寝ていなさい」
「ふぁ〜い……工業ギルドの人たち……要旨にまとまりがない上に、個人の感想が書いてあるから、書類読んでて眠くなるんです……」
寝言のように言い残し、彼は頭をプカプカ浮かべたまま隣の部屋へと消えていった。
オルローグは、静かに椅子に腰かけた。 姿勢は変わらず、秒針の音だけが淡く響いている。
詰所の灯りが、ぽつぽつと内側を照らす。さきほどの喧騒が嘘のように、やわらかく沈んでいく夜の呼吸。少女がベッドのうえで、私の隣に何も言わずに座り、手元を見つめている。
彼女の声は、洋燈の灯りをくすぐるように、ぽつりと落ちた。
「……ねぇ。せんせいの住んでた世界って、どんなところなの?」
その問いは、小さな手のひらで私の胸をそっと叩いたような――そんな、不意に温度の宿るものだった。
私は、答えようとして口を開きかけて……ふと、言葉を呑む。
いったい、どこから話せばよいのか。そして、現段階でどこまでを話すべきなのか。……話したあと、彼女はどんな顔をするのか。
目の前の少女は、ただまっすぐに私を見ている。
――選択は、すぐそこまで来ている。明日には、何かを選ばねばならない。
私は、胸の奥でひとつだけ息を整えた。
「……そうだね。少し、語ろう」
そして私は、少女の問いに向き合うため、ほんの少しだけ姿勢を正した。
――第80景へ……




