第80景:『伝説の寝落ち』
詰所の灯りは、まだ落ちていなかった。
隣に座る少女の体温が、静かに寄り添っている。空気はやわらかく、問いだけが、ぽつんと残っていた。
「……ねぇ。せんせいの住んでた世界って、どんなところなの?」
私は、咳払いひとつ。
「私の世界かね? そうだな――」
腕を組み、神妙な顔で語り出す。
「剣と魔法の世界だ。竜が空を駆け、魔王が塔に住み、冒険者が今日もパーティーを組んでは、裏切られている」
「……おとぎ話みたい!」
少女がぱあっと目を輝かせる。
「だが、誤解しないでほしい。テンプレに厳しい世界だ」
「……てんぷれ!」
少女はなぜか感銘を受けているが、たぶんテンプレの意味は理解していない。
「まず、“追放された主人公が覚醒する”という文化がない。追放された者は普通に職を失い、路頭に迷う。しかも、会社都合退職の補償制度もない」
「ちゃんと成果で評価される、ジョブ型雇用……。アイディンティティが保たれてる!」
「そして、“何を言ってもヒロインにモテる”という文化もない。ダメ男は、正常に、無事に、モテない」
「無事に……!」
「そう、モテる気配すら発生しない。周囲が自然に“あ、コイツないわ”と判断し、湿度のある距離を取られる。私は、この“自然淘汰”の風習を高く評価している」
少女は胸元で手を組み、小さく頷いた。
「市場原理に基づいた、自由な競争が保障されてるのね!」
「まさにそれだ。テンプレがないかわりに、努力が正しく機能している世界だ」
私は、すこしだけ視線を遠くへ泳がせた。
「それから……キミには、まだ話していなかったが」
「うん?」
「私には、キミ以外にも娘がいる」
少女の目が、すっと丸くなる。
「えっ……わたし以外にも、せんせいには娘がいるの?」
「そう。キミのほかに十二人の娘がいる。一番上の娘を“ひとり”と数えるかどうかは議論の余地があるが……一旦十二人だ」
「えっ、そんなに?」
「ああ。さらに仮の娘がひとり。ドラ息子がひとり。それから、義理の息子がひとり。そして、密かに狙っている息子候補が三人だ」
「うち、ダイニングの座席足りるの?」
「問題ない。娘たちは基本実家には寄りつかない」
「寂しさと居住性がトレードオフなのね……」
「まず末っ子のエナだが――甘えん坊でね。毎晩のように私の寝室に忍び込み、頸動脈を切り裂こうとしていた」
「愛情表現の多様性を、ひとつ拡充してるのね」
「だが、いまは嫁に行ってしまった。信頼できる男と結婚し、私は誇らしく思っている」
少女は胸に手を当て、ゆっくりとうっとりした声を漏らした。
「……子育てが終わって睡眠の質が良くなったからこそ、一緒に過ごした時間は、もっと素敵に思えるもの」
――ふむ、彼女の美化フィルタは、今日も絶好調だ。なんと尊い光景であろうか。
「次に、下から二番目の娘。名はマハ。パパの恥部を他人に晒すことに容赦がない。おそらく私の“エロ画像フォルダ”がどこにあるかも把握している」
「“秘密の場所を見つけてしまう女の子”って、ちょっと青春の小さな物語みたい……!」
「小さくなく、大問題だがね。だが、父とは、“恥部を共有してこそ真の理解が得られる存在”だ」
「秘めていたい大切なものを共有するって、たとえ一方的かつ強制でも、絆が深まるのね!」
「それから、しっかり者で心を抉るようなツッコミを浴びせてくる姉がいる。名前は、九重。たいていの場合、私の会話は3手先を読まれている」
「さんて……?」
「『旦はん、先に言うとくけどな?』の"置きツッコミ"により、ボケが輝く時もあるのだよ」
「……予言で期待値をあげられて、なおチャレンジする様式美……。勇敢なのね!」
「ともあれ、みんなキミの姉だよ」
少女は少しだけ間を置き、ぽつんと呟いた。
「……みんな、名前があるのね」
「……そうだな」
「わたしも……名前が欲しい」
少女は一拍呼吸を置く。
「せんせいが、つけて?」
私は少し驚いたように息を呑み、それから、ふっと表情をゆるめた。
「いいとも。総画数から世界中の聖典をひっくり返し、占星術も駆使して――最高の名前を考えておくよ」
「……うん」
少女は、まぶたを半分落としながら、微笑んだ。
「せんせいのせかいの、つづきも……ききたいな……」
「もちろんだ。……私の世界では、“冒険者ギルド”が就職難の巣窟で――」
だが、その続きは届かなかった。少女の小さな頭が、こてんと私の肩に寄りかかる。安らかな呼吸音が、そっと詰所の空気を満たしていく。
……これは伝説の、“娘が、パパの話を聞きながら眠りにつく”光景。
なんと尊い光景であろうか。
間違いない。これは、父性再接続儀式である。
――第81景へ……




