第76景:『たった一人の観客席で』
――ゆっくりと、カーテンが舞台を隠す。照明が落ち、劇の最後の言葉が、まだ空気のどこかに残っていた。
私は椅子に沈んだまま、その余韻を味わっていた。音楽も、台詞も、すべてが終わったはずなのに――舞台にはまだ、物語の気配だけが、ぬくもりのように残っている。
――そのときだった。
客席の明かりがゆっくりと灯り、闇に沈んでいた舞台の幕が、スポットに照らされる。
舞台の前へ、再びエモシュカが現れる。深紅の緞帳を背に、静かに一礼。
――たったひとりきりのカーテンコール。
拍手のない静寂が、その余韻を優しく包んでいた。
私は座席に背を預けたまま、わずかに目を伏せる。……いまはまだ、立ち上がれない。思考が、舞台の上に置き去りにされている。
私は……決めた。
この街を、そしてあの少女を、“両方とも救う"手段は、ギリギリまで探す。街も、あの子も両方消えない。それを模索すること自体は、諦めない。
――だが、もしそれが叶わないのだとしたら。
私は、少女にすべてを話そう。街の真実を、世界の構造を、未来の可能性を。
そして――選ばせる。この街と共に消えるのか。それとも、外で生きることを選ぶのか。
あの劇が突きつけてきた問いは、鋭く、静かだった。
『騙されたまま生きるのと、真実を知って命を落とすのと、どちらが幸せか』
私には、その答えはわからない。だがひとつだけ、確かなことがある。
――『真実を知ってなお、生きる決意をする』
それこそが、人の意志が最も尊く輝く瞬間だ。その選択肢まで奪い、安心だけを与えるのは、支配と同じだ。そして、あの子が、"どうするかを自分で選ぶこと"ができるようにするのが、父の役割だ。
あの子を愛すると言うなら、私は選ばせなければならない。
私は、ゆっくりと目を開けた。舞台は、すでに誰もいない。けれど、あの灯はまだ、胸の奥で静かに燃えていた。
劇場を出ると、空はまだ薄曇りのままだった。けれど、光源の角度が変わっていた。時計は見ていないが、体内のリズムが告げている。――そろそろ帰ろう。
階段の下、劇場の脇にまわると、ちょうどエモシュカが、裏口の扉から出てくるところだった。
「……えへへ。あの……その………どうでした?」
全身で"恥ずかしがっている"を表現している、その姿。髪はそのまま、服だけが森ガール風のワンピースに戻っている。そして、顔の化粧もそのままだ。
頬の赤み、目元の光、口紅の艶。舞台映えを意識したメイクだ。
――だが、悪くない。いやむしろ、この顔立ちには、よく似合っていた。
もともと“どこか特徴に欠ける”エモシュカの顔は、言い換えれば“化粧映えのする顔”だ。本人が意図していたかはともかく、今の彼女は、誰がどう見ても――
「……美しかったよ」
そのまま、私はそう口にした。
「……へっ?」
私の第一声に、彼女は硬直した。
「キミの芝居は見事だった。だがそれ以上に、照明の下で立つキミの姿は…美しかったよ」
エモシュカは、ぐらりとその場で揺れた。完全にノーガードだったのだろう。
「ぅ……あ、あああの、えっ? い、いま、なんて……!? えっ、えっ!?」
声が裏返り、視線が泳ぎ、両手がバタバタと宙を泳ぎ出す。
「ちょっ、ちょっと待ってください先生。それ、そんな真面目な顔で言われると意味が……意味がぁあああ!!」
ぶんぶん手を振り回しながら、後退る。――そして、段差を見逃して、ずるっと滑った。
「ふぎゃっ」
ずてん、と音を立てて尻餅をつく。まるで漫画のような転び方だった。スカートの裾がふわりと舞い、ポシェットがずれて揺れる。
あまりに想定通りすぎて、私は思わず小さく笑った。
「……せっかく褒めたのに、なぜ事故るのかね」
「だっ、だって……そ、そんな、そんな……!」
顔を真っ赤にしてうずくまりながら、エモシュカは両手で頬を覆ってぶるぶる震えていた。
素直に褒められてパニックになる者も珍しい。不憫というより、もはや仕様である。
私は手を差し伸べた。
「帰るぞ。挙動不審者として通報される前にな」
「ぅ、ぅぅ……はいぃ……」
エモシュカは両手で顔を覆ったまま、ふらふらと立ち上がった。その横で、私はふと空を見上げる。薄曇りの空に、低く光源がみえる。
私は歩き出した。隣を、エモシュカが少し距離を空けながら、追いついてくる。
なんでもない街角を、ふたりで歩く。ただ、それだけの光景が。劇の幕が下りた今も、どこか芝居の余韻の中にあるように感じられた。
――けれど、この世界は舞台の物語とは違う。
これは、“嘘”の中にある歩みではない。この街に、彼女に。そして、あの子に。
何かを託せるのならば、私は――次の一歩を、選ばなければならない。
――第77景へ……




