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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第六旅程『Pamětná』
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第75景:『不在者のための花束ーUn Bouquet pour l’Absentー』


 演奏が始まった。華やかではなく、ゆるやかに。木管が一音ずつ空気を震わせ、低く、静かに――まるで何かを探るように、旋律は慎重に進んでゆく。


 舞台中央に立つエモシュカは、すでに別人だった。

 彼女は、貧しい少女を演じていた。着ているのは、華やかなドレス。手には何も持っていない。

 しかし、その動きや仕草だけで、粗末な服に身を包み、手には空っぽの籠を持った、ティーンエイジの女性が重なって見える。


 次の瞬間、彼女は“別人”となった。

 振り返り、身ぶりと共に口調を変え、少女を叱る――視線の位置と声音だけで、観客の視界に“もう一人の登場人物”を現出させる。そして再び少女に戻り、涙を堪えるように顔を伏せた。

 私は、思わず指先に力が入るのを感じた。


 ――巧みだ。

 視線の角度。手の置き方。言葉の間。すべてが、まるで“そこに別の人間がいる”かのように錯覚させる精度だった。


 その後、貧しい少女は市場の広場へと出る。身振りひとつで場面が変わり、複数の“群衆”を彼女が一人で演じ分ける。

 太った女性。商人。すれ違う青年――どれもほんの一言、あるいは無言の動作だけだが、どれも「違う誰か」として立ち上がっていた。

 私は、それらを分析しながら見ていた。声のトーン。呼吸。目の動き。沈黙の取り方。


 だが――物語が、少しずつ進むにつれて。少女が“ある噂”を耳にしたあたりから、私の思考は、分析よりも、物語そのものに引き寄せられていった。


 ――この世界には、“真実”が存在しないらしい。

 語られる寓話は、誰が語るかで内容が異なった。そして、世界の成り立ちも、隣人の姿も、風景さえも。ひとりひとりが、全て別の答えを語る。

 誰もが、“信じたい形の真実”だけを抱えて生きている。……そんな街の物語。


 そして少女は、その中の一つを選んだ。


 「それが嘘でも、あたしは……この花を、信じてるから」


 ――ああ、これは。

 これは、一人の観客のための芝居ではない。彼女自身が、演じながら、問いかけているのだ。私に……いや、この世界のすべてに。


 私は、静かに椅子にもたれ直した。

 物語は、まだ序盤だ。なのに、私はすでに――飲まれていた。

 劇中の少女は、旅に出ようとしていた。だが、その足は止まる。小さな花籠を手にしたまま、彼女が住む区画の門の前で立ち尽くす。

 門の向こうは、彼女が訪れたことのない区画。つまり、“まだ見ぬ世界”だ。

 けれど彼女は振り返る。目を伏せ、小さく震える。


 ――怖いのだ。

 嘘だと知っている。それでも、この世界で語られる昔語りに、温もりを感じていた。

 『あの人がくれた言葉』を、手放したくない。

 少女の背中を、私は見つめていた。

 舞台上の貧しい少女ではない。……スルドツェの少女を、である。


 ……街の完成を促す方法は、"すでにある"。

 難しいことではない。あの子に、“外に出たい”と思わせればいい。

 私が、『一緒に行こう』と手を差し伸べればいい。


 『食べたこともないような、美味しいパン屋がある。"飛行船"という空飛ぶ乗り物だってある』

 『"海"という、見渡す限り水しかない場所がある。"山"という、スルドツェの百倍高い場所がある』

 『人間ではない、"奇妙な姿の生物たち"がいる。キミと同じ角を持った、"羊"なんて生き物もいる』


 そんな“夢のような話”をすれば、彼女はきっと目を輝かせる。


 不安は、私が取り除いてやればいい。

 『街が完成しても消えない方法は、私がみつけた』

 『戻って来たければ、いつでも帰ってこれる』

 ――その程度の嘘、いくらでも吐ける。


 そして彼女は、きっと信じるだろう。

 あの子は、私を信じようとしてくれる。私の言葉に、いつだって耳を傾けてくれる。

 ……ルースカが“住人は消える”と語った時も、あの子は取り乱さなかった。おそらく、もう知っているのだ。もしくは、直感的に感じている。

 それでも私が『大丈夫さ』と言えば、彼女は頷くだろう。


 ――あまりにも、簡単な話だ。


 だが。舞台の少女は、花を抱えたまま、再び門の向こうを見つめた。――選ばない。

 誰の言葉も、真実も、拒まず。どれも信じたまま、ただそこに立っている。花を手放さず。嘘を捨てず。でも、前にも進まない。

 音楽が、そっと静かになってゆく。

 最後のひとつの和音だけを残し、楽団員が、順に楽器を置いていく。

 ――そして、光が収束する。彼女の姿が、照明の中で、ゆっくりと滲んでいく。


 ――拍手はない。観客は、私一人だからだ。

 だが、私は。立ち上がることも、手を叩くこともせず、ただ、黙ってその幕を見届けた。



――第76景へ……

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