第75景:『不在者のための花束ーUn Bouquet pour l’Absentー』
演奏が始まった。華やかではなく、ゆるやかに。木管が一音ずつ空気を震わせ、低く、静かに――まるで何かを探るように、旋律は慎重に進んでゆく。
舞台中央に立つエモシュカは、すでに別人だった。
彼女は、貧しい少女を演じていた。着ているのは、華やかなドレス。手には何も持っていない。
しかし、その動きや仕草だけで、粗末な服に身を包み、手には空っぽの籠を持った、ティーンエイジの女性が重なって見える。
次の瞬間、彼女は“別人”となった。
振り返り、身ぶりと共に口調を変え、少女を叱る――視線の位置と声音だけで、観客の視界に“もう一人の登場人物”を現出させる。そして再び少女に戻り、涙を堪えるように顔を伏せた。
私は、思わず指先に力が入るのを感じた。
――巧みだ。
視線の角度。手の置き方。言葉の間。すべてが、まるで“そこに別の人間がいる”かのように錯覚させる精度だった。
その後、貧しい少女は市場の広場へと出る。身振りひとつで場面が変わり、複数の“群衆”を彼女が一人で演じ分ける。
太った女性。商人。すれ違う青年――どれもほんの一言、あるいは無言の動作だけだが、どれも「違う誰か」として立ち上がっていた。
私は、それらを分析しながら見ていた。声のトーン。呼吸。目の動き。沈黙の取り方。
だが――物語が、少しずつ進むにつれて。少女が“ある噂”を耳にしたあたりから、私の思考は、分析よりも、物語そのものに引き寄せられていった。
――この世界には、“真実”が存在しないらしい。
語られる寓話は、誰が語るかで内容が異なった。そして、世界の成り立ちも、隣人の姿も、風景さえも。ひとりひとりが、全て別の答えを語る。
誰もが、“信じたい形の真実”だけを抱えて生きている。……そんな街の物語。
そして少女は、その中の一つを選んだ。
「それが嘘でも、あたしは……この花を、信じてるから」
――ああ、これは。
これは、一人の観客のための芝居ではない。彼女自身が、演じながら、問いかけているのだ。私に……いや、この世界のすべてに。
私は、静かに椅子にもたれ直した。
物語は、まだ序盤だ。なのに、私はすでに――飲まれていた。
劇中の少女は、旅に出ようとしていた。だが、その足は止まる。小さな花籠を手にしたまま、彼女が住む区画の門の前で立ち尽くす。
門の向こうは、彼女が訪れたことのない区画。つまり、“まだ見ぬ世界”だ。
けれど彼女は振り返る。目を伏せ、小さく震える。
――怖いのだ。
嘘だと知っている。それでも、この世界で語られる昔語りに、温もりを感じていた。
『あの人がくれた言葉』を、手放したくない。
少女の背中を、私は見つめていた。
舞台上の貧しい少女ではない。……スルドツェの少女を、である。
……街の完成を促す方法は、"すでにある"。
難しいことではない。あの子に、“外に出たい”と思わせればいい。
私が、『一緒に行こう』と手を差し伸べればいい。
『食べたこともないような、美味しいパン屋がある。"飛行船"という空飛ぶ乗り物だってある』
『"海"という、見渡す限り水しかない場所がある。"山"という、スルドツェの百倍高い場所がある』
『人間ではない、"奇妙な姿の生物たち"がいる。キミと同じ角を持った、"羊"なんて生き物もいる』
そんな“夢のような話”をすれば、彼女はきっと目を輝かせる。
不安は、私が取り除いてやればいい。
『街が完成しても消えない方法は、私がみつけた』
『戻って来たければ、いつでも帰ってこれる』
――その程度の嘘、いくらでも吐ける。
そして彼女は、きっと信じるだろう。
あの子は、私を信じようとしてくれる。私の言葉に、いつだって耳を傾けてくれる。
……ルースカが“住人は消える”と語った時も、あの子は取り乱さなかった。おそらく、もう知っているのだ。もしくは、直感的に感じている。
それでも私が『大丈夫さ』と言えば、彼女は頷くだろう。
――あまりにも、簡単な話だ。
だが。舞台の少女は、花を抱えたまま、再び門の向こうを見つめた。――選ばない。
誰の言葉も、真実も、拒まず。どれも信じたまま、ただそこに立っている。花を手放さず。嘘を捨てず。でも、前にも進まない。
音楽が、そっと静かになってゆく。
最後のひとつの和音だけを残し、楽団員が、順に楽器を置いていく。
――そして、光が収束する。彼女の姿が、照明の中で、ゆっくりと滲んでいく。
――拍手はない。観客は、私一人だからだ。
だが、私は。立ち上がることも、手を叩くこともせず、ただ、黙ってその幕を見届けた。
――第76景へ……




