第74景:『光の舞台』
午後の光に照らされて、石造りの大きな建物が姿を現した。
白い壁に赤褐色の瓦屋根。バロック様式の正面装飾と、控えめな塔屋。その上部、中央のアーチ窓には、色とりどりのガラスがはめ込まれている。
「ここです!」
エモシュカが、少しだけ背伸びするようにして手を上げた。
「ここ、メインは演奏会や音楽会なんですけど、演劇もやってるんです。舞台の後ろのステンドグラスが、すっごく綺麗って聞いてて……!」
「ほう……しかし、見たところ、今日は休館のようだが?」
私は扉の前に掛けられた、閉館を示す札を見下ろす。
「ふぇ!?」
エモシュカも顔を下げ、同じ札を見て目を瞬いた。
「あっ、ほんとだ……今日……休館日!?……」
……待望のステンドグラスが、よりによって休館日。さすが、不憫枠の鑑である。
一瞬うろたえた彼女だったが、すぐに表情を引き締めて振り向いた。
「大丈夫ですっ! 今から館長さんに頼んでみます!」
「……知り合いなのかね?」
「はいっ! うちの劇場で、ここの人たちにも音楽会をやってもらうこともあって。その関係で、交流があるんです」
エモシュカは胸を張って笑ったが、それが“自分の顔が効く”という誇らしさではないことは、すぐに分かった。むしろ、“誰かとの信頼関係に助けられている”という、ちょっとだけ照れた笑みだった。
「……ちょっと行ってきます!」
そう言って駆け足で建物の裏手へと回っていくエモシュカを見送り、私はしばし扉の前に立ち尽くす。
――少しして、扉の内側から音がした。キーッ、と金属の軋む音と共に、扉が少しだけ開く。
顔を覗かせたのは、白いシャツにベストの男。頭頂には、ピコりと三角の耳。肩には楽器ケースのストラップ。
「あっ、どうぞ中へ。鍵、開いてますんで」
男は丁寧に頭を下げると、扉を大きく開いた。
「僕ら、練習でステージ使わせてもらってたんですけど、丁度終わったとこなんで。エモシュカさんは、まだ館長と話中なんで、中で座って待ってて貰っていいですか?」
「……承知した」
私は静かに頷き、扉の奥へと足を踏み入れる。
その横で、扉を開けてくれた彼は、なぜかニヤニヤと意味深な笑みを浮かべている……。急遽頼まれた雑務にしては、ずいぶん楽しそうだ。
――中は、ほんのわずかに冷えていた。光源は少ないが、そのぶん、空気が澄んでいる。
ふむ……これは。
思わず……足を止めた。奥の舞台――その背面に据えられた、巨大なステンドグラス。幾何学的な構成に、波や光の抽象モチーフ。淡い水色と、透き通るような黄色の配色。
そして中央には、柔らかな羊毛をまとった人物が、ゆるやかに腕を広げていた。
「……なるほど。たしかに、これは見事だな」
ステージ奥から差し込む淡い光が、広がったガラス面をゆっくりと染め上げる。ガラスは、色彩の細波のように重なり合い、細工のひとつひとつが、言葉を持たぬまま何かを語っているかのようだった。
美術品や装飾には頓着の薄い私ですら、確かに胸を打たれるものがある。これが人の手で作られたという事実を思えば……技巧と意匠の緻密さに、思わず言葉を失う。
私はひとつ息を吐き、後方の客席へと足を進めた。
誰もいない劇場。客席の木の香りと、ステージから反響する残響音。――観客も、演者も、今はいない。
だからこそ、その光景が、息を潜めるように、静かに佇んでいた。
私は、背もたれの深い一席に腰を下ろした。そして、静かに、正面を見つめる。それは、まるで誰かの心の奥の“記憶の一場面”のように。
――しばらく、そこまま静かに時を過ごす。
だが、エモシュカはなかなか姿を見せない。
まあ、中央劇場のオーナーともなれば、挨拶一つとっても、そう簡単に済ませられるものではないのだろう。立場というものはどこまでもついて回る。
――そして、私はプロぼっちである。この程度の“ひとり時間”で心を乱すようでは、独居界では食っていけない。広い観客席に一人きりという状況も、薄暗い照明も、むしろ居心地が良いのだ。
静寂は、呼吸のように馴染んでいた。――だが、それが不意に破られた。
ぱちん、と乾いた音が劇場の奥で響いた。次の瞬間、舞台の上部に取り付けられた照明が、一斉に明かりを灯す。それと連動するように、客席の明かりがふっと落ちた。
まばゆい光の中で、舞台が静かに浮かび上がる。
「……おや?」
私は背もたれから身を起こし、舞台を見据えた。
やや遅れて――舞台脇の袖から、整った衣装に身を包んだ人影が現れ始める。
細身の燕尾服に、光沢のある靴。首元に揃えられた蝶ネクタイ。ただし、それぞれ耳の位置が高すぎたり、足の先が蹄のように尖っていたりしている。
――6人の楽団員たちが、音もなく舞台上に配置されていく。
フルート、クラリネット、ホルン、トロンボーン、ユーフォニウム、そしてコントラバス。それぞれの椅子に座り、譜面を開く手の動きに、一点の淀みもない。
私はわずかに目を細めた。
――そして。袖の奥から、ゆっくりと歩み出たひとりの女性。シックなネイビーブルーのロングドレス。デコルテに沿った刺繍が、わずかに金糸を含んで光を返していた。
髪は柔らかくまとめられ、顔立ちは端正。少しだけ緊張の残る瞳が、正面の客席へと向けられる。
――その姿に、私は最初、息を呑んだ。
人間の美醜というものに関心の薄い私でさえ、その女性が“美しい”ということだけは理解できた。単に整った容貌のせいではない。立ち姿、身のこなし、沈黙すらも計算され尽くし、“魅せる”という目的に最適化されていた。
舞台上に突如現れた、謎の麗人。……いや、違う。わずかな仕草や、身体のシルエット。それらが――記憶の中に一致する。
ステージ中央で、彼女は深く一礼した。その頭頂の螺旋角に気づき、ようやく私は確信する。あれは――エモシュカ・ヴラーナだ。
彼女が、舞台に立っていた。静かに、堂々と。光の海の中で――。
――すると、さらにもうひとつ、舞台の袖がわずかに動いた。
次に現れたのは、燕尾服の男。横に長く伸びた特徴的な耳。銀の縁取りが入ったベスト。胸元に挿した赤のチーフが、深い色の背景で強く浮かび上がる。
男はゆっくりと歩み出て、舞台の縁に立つと、ひとつ深く礼をした。
その所作は、静謐でありながら、観客を自然と引き込む何かを持っていた。この劇場のオーナーだろうか?
男は顔を上げ、舞台上の光の中心に立つエモシュカにちらと視線を送り、それから、客席――つまり私へと、にこやかに語りかける。
「皆々様……いえ、本日は……“おひとり様”でございますな?」
彼は目を細めて、にっこりと笑った。
「このたびは、当劇場“ルミエール・オブスキュラ”にお越し頂き、誠にありがとうございます」
その声は、よく通る。
抑えめなトーンなのに、なぜか、胸の奥に響くような声だった。
「本日は特別公演をご用意いたしました」
男はそう言って、客席へと手を広げる。その仕草が、どこか祝祭の始まりを告げるようで、私は知らず背筋を正していた。
「演目は……」
男は、わずかに口角を上げて、いたずらっぽく言った。
「――『Un Bouquet pour l’Absent』」
観客は、私ひとり。けれど、舞台は堂々と開かれる。
「演奏:夢の街室内楽団。演者:エモシュカ・ヴラーナ嬢。
脚本・構成:すべて、彼女の内側より……」
男は、すっと後ろに下がり、演者へと視線を託した。
そして――第一ヴァイオリンの弓が、弦を鳴らす。それを合図に、全楽団が一斉に演奏を始めた。
ゆるやかに、旋律が重なる。管と弦が、舞台の天蓋に光の波紋を描き出す。
そして、その中央。エモシュカが、ひとつだけ息を吸い――演じ始めた。
照明の下に、ただひとり。彼女の声と身振りが、劇場の空気を塗り替えてゆく。その意味は、まだ分からない。
だが今は――その始まりを、ただ静かに受け止めるしかなかった。
――第75景へ……




