第71景:『運命の午後ティーへ、ようこそ』
本来なら、このタイミングでの“モテイベント”は、回避すべきだ。
理由は、三つある。
――ひとつ。気のない女性に、希望を抱かせるのは不誠実であるという、道徳的問題。
私は倫理の人間である。研究においても、対人関係においても、常に誠実である。いかなる実験においても、被験者には必ずインフォームドコンセントを……
――いや、盛大に嘘をついた。
むしろ私は“希望に縋らせてから裏切る”ことに関しては、プロフェッショナルですらある。もはや芸術の域である。いまさら倫理など持ち出す必要もない。
――だが、ふたつめ。モテイベントは、基本たるい。ギャグに振り切ることも、エモに寄せることも難しい。
……これが、恋愛イベントなら話は違う。お互いの想いが通じ合う、ハッピーエモ。想いがすれ違い、涙の切ない系エモ。そう、エモの宝庫である。
だが、勘違いしてはいけない。これは"恋愛イベント"ではなく、"モテイベント"だ。
主人公が“ただただモテてる"状態を維持せねばならない。そのため、恋愛関係など始まらない。だが、関係悪化も許されない。ひたすらに、中途半端な空気を引き延ばすしかない。
たるい。ただただ、たるい。
ストーリー進行にも一切関係ない“構造上の地獄”。――そう、それがモテイベントである。
私がモテイベントを忌避する理由は、ここにある。
――みっつめ。ぶっちゃけ、それどころではない。
今この瞬間も、街は“外”に向かって、ゆっくりと開きつつある。ポータルの計測結果から見れば、早ければあと一ヶ月。
……たった一ヶ月だ。
もちろん、“まだ一ヶ月ある”と考えることもできる。だが、それは、街の拡張が再開した上で、ルースカたちが"各区画の建設を完了させる"、という条件を満たした上での“最大猶予”である。
この都市は、たった十五年でここまでの規模になった。彼らの建設速度をもってすれば、不可能ではない。だが、余裕があるとは言えない。
一ヶ月。冗談みたいな短さだ。
――だが、私はモテパートへと突入した。理由もまた、三つある。
――ひとつ。相手は、不憫枠である。心に多少の傷を残そうと、それは味になる。
むしろ、はっきりしない優柔不断な態度に、引っ張るだけ引っ張られ、ラスト直前で振られるという残虐非道の扱いを受けてこそ、“不憫キャラ”の正統なエンディングである。
そう、彼女たちの貴重な青春は、棒に振るためにあるのだ。
――ふたつ。私はこの状況ですらギャグに昇華する自信がある。まして相手はエモシュカ。素材としては申し分ない。
これが、ラスカヴァやインスティナであれば、微妙な空気になって、なんかシャキッとしない感じになるだろう。
あるいは、そのまま押し切られる恐れすらある。なし崩しに恋愛パートに引きずりこまれる……そんな可能性すら危惧せねばならない。
だが、不憫枠であれば、十分に回せる。ツッコミも刺さる。収録にも優しい。
――そして、みっつめ。私は……街を完成させるための手段を、すでに"ひとつ持っている"。
……だが、私はその決断を、まだ下せないでいる。覚悟を決めるため、"それは正しい決断か"と自分に問いかける時間が欲しいのだ。
そして、“本当に他に手段はないのか”を探る、冷静な思考の余白も。
"苦悩"とは、行動を伴わない未決の時間である。ならば、日常パートは、そのための装置として機能する。
ふわっとしたイベント。構造的な意味を持たないやり取り。物語の本筋から逸れた、無意味な寄り道。
……だからこそ、私はここに“時間”を託すのだ。
***
――アーチを抜け、街路へ。
エモシュカは、ふわりとスカートを揺らしながら、石畳の坂道を楽しげに駆け出していった。
繁華街へと続く通り。昼下がりの柔らかな光が、カフェのガラスやブティックの看板を飾っている。まるで、モテイベント用のロケーションとして意識されているかのようだ。
私は決意した。『いったん、雰囲気に乗ろう』と。――ここで、激しいボケツッコミに突入するのは望ましくない。さっきまで、図書館の書架で“世界の謎”を真面目に語り合っていたのだ。テンションの落差が激しすぎれば、デシベル調整に失敗する。
ゆえに、今は泳がせる。まずはギャグパートへのスロープとして、空気を温める。
そう、笑いの神に全てを委ねる。"取りに行く"のではない、"転がってきたネタを拾う"のだ。これは、古来より伝わるギャグパートの作法である。
「エモシュカ女史。この辺りには、よく来るのかね?」
呼びかけに、彼女はくるりと振り返った。スカートの裾と、肩掛けのポシェットがふわりと揺れる。
「えっと、フラヴァ区自体はエモツェの集まりでよく来ますけど……。この辺の繁華街は、初めてなんですっ」
「ほう。集まりは定期的に?」
「はいっ。月1回の定例と、あと議題が上がったときに不定期で! 最近はその……あの子の容態とか、街の異常のことで、けっこう増えてますね」
なるほど。エモツェたちの会合は、予想よりも頻繁に行われているらしい。
……だが、所詮は5人。しかも全員が専属職というわけではない。それで街全体の意思決定を担うには、いささか心許ないようにも思える。
だが、この街が充分に機能しているのは、外から持ち込まれた"雛形"のある制度設計と、街を完成させるという明確な目的が共有されているからだろう。
統治ではなく、アレンジと微調整。まさに"調律者"という役割なのだ。
……だが、私の思考は、別の部分に引っかかった。
――月1回?
そう、これも言及の禁じられた"タブー"の一つである。
異世界なのに、なぜか“1ヶ月”がある。なぜか“7日で1週”が常識で、“12ヶ月制”で回っている。時間も“24時間制”で、“1時間60分・1分60秒”で構成されている。
おまけにSI単位系で、何ならニュートンの運動方程式を口に出す頭脳系キャラすらいる。
文明の起源も宗教体系も共有しない異世界が、なぜか暦法と単位系を共有している。『いや、それ普通だから』みたいな顔で誰もがスルーする。
――なぜだ? 国際度量衡総会は、異世界にも権力を伸ばしているのか?
"週"がなぜ7日か。"秒"は誰が決めたのか。"おやつの時間3時"はどこの文化か。……とにかく、突っ込んだら負けなのだ。
それらは、『世の中の常識』である。
……いや、あるいは『誰かの思い出』なのかもしれないな…。
「……先生?」
「……ああ、失礼。ちょっと時空の構造に思いを馳せていただけだ」
「じ、じくう……?」
「いや、気にしなくていい。お菓子屋の前で悩むときの“どれ買おうかな理論”と似たようなものだ」
「わぁ……それ、けっこう難しいやつ……!」
……彼女の頬が、光に照らされてふわっと柔らかくなった。少しだけ髪を巻いた横顔は、昨夜の芝居姿よりもずっと幼く見える。
口元は嬉しそうに緩み、瞳は街を追いかけるように泳ぐ。彼女は、本当にこの時間を楽しんでいるらしい。
私は少しだけ歩調を落とした。この街には、まだ見ていない“日常”がある。
だが、街の謎も、少女の未来も、私の罪も……いったん、脇に置こう。――取れ高のために。
私は歩きながら、“エモシュカの、うっかり発言を拾う準備”を、静かに始めた。
――第72景へ……




