第64景:『過去を訪ねて』
図書館の書架――
パムェトナは返却台に本を置き、こちらに片手を向ける。“話してもいい”という、静かな許可だった。
私は一礼のように顎を引き、軽く白衣の袖を整える。
「本題に入る前に、少し世間話をしたい。アイスブレイクも兼ねる」
「……『いまからアイスブレイクします』、なんて言う人初めてよ」
「“本論とは直接関係しないが重要なので触れておく”の前置きは、持論を語りたいという衝動を合法化する魔法の呪文だ」
「“関係ないけど重要”って言葉の矛盾に気づかない著者の論説は、その時点で読むのをやめることにしてるの」
「まあ、そう邪険にするな。キミのような慎重な人間には、本題の前に地ならしが要るものだよ」
わずかに口角を上げたまま、パムェトナはカード整理を再開する。
「で、そのアイスブレイクの議題はなに? 私の趣味? それとも男性の好みでも話そうかしら?」
冗談とも挑発ともつかぬ軽口で、彼女は告げる。私は鼻を鳴らすように笑った。
「キミのような美しい人から、その情報を得ることに興味津々の男は多いだろうがね。あいにく私は、キミ自身には興味がない」
「じゃあ、なに?」
「恋について、だ」
パムェトナの指が一瞬だけ止まり、また動き出した。
「……唐突ね」
「そのほうが、“らしい”と思ってもらえるかと思ってね」
「……で?」
「キミは、恋をしたことがあるかね?」
「私に男性の好みを聞く男と、私の恋愛遍歴に興味がある男。……どっちが軽薄なのか、議論する?」
「軽薄さには自信を持っている。世界軽薄さランキングがあれば、5位以内には確実に食い込むだろう」
「そのランキング、母数いくつかしら。……10人中の5位なら、会話を続けてあげるわ」
私は再び鼻を鳴らした。
「で、答えは? 答えたくないなら、それで構わんがね」
「……昔、一度だけ。でも、あれが本当に“恋”だったのかは……いまでもよく分からない」
「ふむ。興味深い」
私は本棚の角に手を当て、言葉の角度を変える。
「仮に恋人になったとしよう。では、恋人と何をする?」
「私個人に興味があるの? ないの? それとも、それも世間話の範疇?」
「世間話のほうだ。一般論でかまわんよ」
「……なら、そうね。本を一緒に読んで、紅茶を飲んで、少し話して……かしら」
「なるほど。“行為”より“共に居る”ことを選ぶタイプだね」
「皮肉?」
「いや、肯定だ。だが、もう一段深く行こう」
私は静かに、声の温度を一段下げた。
「では、キミは“愛し合う”という行為が、何のために存在するかを考えたことがあるかね?」
パムェトナは答えなかった。代わりに、眉をひそめて視線をこちらに向ける。
……完全に変態を見る目だったが、私には耐性がある。娘たちの“汚物処理班の管轄物を見る目”に比べれば生ぬるい。
――よって問題なし。私は気にせず論を進める。
「この街において、それは“意味のない行為”だ。人は老いず、子を成さない」
静かに、私は言葉を重ねた。
「だが我々の世界では違う。それは、もっとも根源的で、意味のある行為。それは本能に刻まれた"継続"への欲求だ」
「……継続?」
「我々の世界では、人は“人の中”、より正確に言えば“女性の胎内”から生まれてくる。そして、時が経てば老いて死に、次の世代へと場所を譲る」
パムェトナは、目を細めた。長い睫毛の影が瞳に落ちる。
「……なんだか、気味の悪い話ね」
「だが、我々にとっては“もっとも尊い仕組み”なのだよ」
私は手を組み直し、低く続ける。
「"恋する"という行為は、その仕組みを前提としたものだ」
そして、私は目を細める。
「この街では、その"意味のない行為"がある。ならば、それは自然発生ではない。“それが意味を持つ世界”に由来するものだ」
パムェトナは口を開かない。ただ、今度は明確にこちらを見ていた。
私はゆっくりと、会話の主導権を握るように微笑む。そして視線を宙からパムェトナに戻し、言葉のトーンを切り替えた。
「さすがにデリカシーに欠けた話題だったな。……別の話をしよう」
私は指を組み替えながら、次の問いを放つ。
「スルドツェに住む、あの少女のことは?」
パムェトナは、書棚に資料を戻す手を止めた。
「……もちろん。知ってるわ。あの子は、長く床に臥せっていた。医師の記録にも、わたし個人の記憶にも、経過は残ってる」
彼女はゆっくりと、本の背をなでるように整えながら続けた。
「最近、急速に回復したのも把握している。でも……あなたが救ったというのは、信じてない」
パムェトナは視線も合わせず、さも当然のことのようにサラリと告げる。
私はそのまま、静かに頷いた。
「なるほど。良い反応だ。そういう“否定”を頂けるのはありがたい」
パムェトナは手にしていたカード束の端を揃えると、細い指で一枚、丁寧に引き抜いた。そのまま目線だけをこちらに寄越す。
「……なに? それ…」
「仮説の精度を測るには、“話を鵜呑みにしない相手”のほうが都合がいい」
彼女の睫毛がふっと揺れた。鼻先のあたりで、さらりと髪が揺れる。
「……理屈は分かるけど、性格の悪さが滲み出てるわよ」
「うむ。誠実な自己認識とはそういうものだ」
私は軽く視線を逸らし、書架の影を一瞥した。
「では話題を変えよう。この図書館には、どれほど勤めている?」
「……もう十二年くらいになるわね」
「なるほど。ちなみに、この街には?」
「十五年と、少し」
淡々とした声。その返しは、数字だけが浮かぶように短く、乾いていた。
私はわずかに眉を上げた。
「それは……この街が現れてから、ということかな?」
返事はなかった。
「まあ、この話はルースカ女史にも少し聞いたのだよ」
私は手を背中で組み直す。視線を斜めに落としながら、声の調子を少しだけ和らげた。
「この街は、始めは小さく。時計塔と、その周辺だけだった……と」
そのとき、彼女は一冊の分厚い図鑑を抱え直した。指先にわずかな力がこもる。その仕草は、記録を守る者の無意識の防御にも見えた。
「……」
パムェトナは答えなかったが、否定もしない。私は無言で頷き、書棚に一歩近づく。声の抑揚をさらに落とし、踏み込む準備を整える。
「では、始めよう。“この街の仕組み”についての、私の仮説の話を」
パムェトナは、黙って頷いた。そして、記録カードに印をつけながら、言葉を返す。
「……聞きましょう。世間話の続きを、ね」
――この図書館には、無数の書物がある。
この街の歴史、都市構造、経済、建築様式、風土、文化……すべてが分類され、整然と棚に収まっている。
だが、そのどれもに答えは記されていない。ここにあるのは、過去に書かれた“記録”であり、“新たな問い”に対しては静寂の積層だ。
……だから、私は語る。“この街が何であるか”。“なぜ私はここにいるのか”。
私はこの街の謎について、概ねの仮説を立てている。そして、その輪郭は見えている。それを使い、この街の仕組みにもう一歩踏み込む。
――"答え合わせ編"の始まりだ。
――第65景へ……




