第63景:『門前の調律者』
図書館の前には、朝の風が流れていた。
古い石造のファサードに、繊細な鉄細工のアーチ。幾層にも重なるアール・ヌーヴォー装飾と、荘厳な議政堂の併設構造。
その威容は、単なる蔵書の殿堂ではなく、この都市における知と秩序の象徴だった。
――そして、私はそこにひとりで立っていた。
少女は、スルドツェに残している。彼女はついてきたがっていたが、ここしばらく、あまりにも休んでいない。
回復したばかりの身体で、連日の探索と精神負荷。“ドクターストップ”というより、“パパストップ”である。
「……おや」
視線の先。図書館の門の前に、見慣れぬシルエットだが、その顔には見覚えがある。
――エモシュカ・ヴラーナ。だが、今朝のスウェットではない。厚手のカーディガンに、裾がふわりと広がるチェックのワンピース。目の前の彼女は、完全に“森ガール”だった。
仮面は、ない。代わりに髪を半分まとめて、ほんのり巻いてある。今朝までのポンコツ感とは違う……微妙な緊張をまとっていた。
私が近づくと、彼女はすぐ気づき、小さく手を上げた。
「あっ! 先生!」
私は、思わず足を止める。
「ふむ、なぜ君がここに? 劇場の方に帰ったのではなかったのかね?」
「今日はお休みなんです、劇場。公演スケジュールの間で!」
「なるほど、休日か。それはよい。だが、答えになっていないな。私が聞きたいのは、"なぜキミが図書館の前で私を待っていたのか"のほうだ」
エモシュカは少し得意げに胸を張ると、肩にかけたポシェットのストラップを握った。
下の方で、ドライフラワーの飾りが揺れる。
「先生がパムェトナさんに会うって言ってたので……。先回りしておきました!」
私は腕を組み、少しだけ目を細めた。彼女が私のために行動するとは、予想外だ。
「……察しが良いな。ここで待ってくれていたと言うことは、手助けの準備があると言うことだろう?」
「えへへ……。パムェトナさん、外部の人が面会しようとしても大変だから。先生、困ってるかなって」
私は静かに図書館の扉を見上げた。重たそうな両開きの扉。そこから視線を落とし、改めて彼女の装いを観察する。
彼女の印象とはずいぶん異なるが、だが、“この場に似合う”という点では悪くない。
「まあ、面会を取り付ける手段はいくつか考えてはいるがね」
その言葉に、彼女の肩がすとんと落ちた。絵に描いたような“しょんぼり顔”。
……実に、わかりやすい。
「だが、いずれも今日すぐ会える手ではなかった。正直言って、助かったよ」
その瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなった。湯気のように浮かぶドヤ顔で、胸を張る。
「えへへっ。ですよね! 普通にやったら、すっごく時間かかりますから!」
彼女は得意げに両手を腰に当て、胸を張る。
この女、表情がころころ変わる。しょんぼり → ぱあっ → ドヤ顔まで、実に忙しい。まさに、女版スヴェルカである。
私は脳内の“処遇テンプレート一覧”を開き、スヴェルカの隣に、そっとエモシュカを置いた。
「パムェトナさんって、議会の記録と照合と監査も兼ねてるんです。だから、関係者以外には基本、“面会不可”なんですよ?」
私は、指先を顎にあてて目を細める。
「まあ、そうだろうな」
エモシュカは、少しだけ得意げに笑った。
「だから、私の顔を使います!」
「……顔パスというやつか」
「まあ、顔というより……立場ですね。わたし、“エモツェ”なんで」
「ふむ。確かに、君は私の前でスウェットで泣いていた公式調律者だ。信頼に足る」
「そこ掘り返さないでください〜っ!」
私は、にやりと笑い、図書館の重たい木扉へと視線を向けた。
――この奥に、“記憶”……つまり"過去"を司る女がいる。
少女を残してきた今は私は父としてではなく、探索者として、扉の向こうへと向かおう。
その先導を担うエモシュカは、少しだけ心強かった。私はひとつ頷き、思案するふりをしながら、わざとらしく言った。
「出番がないと嘆いていたわりには、良い働きだ」
「そ、それも言わないでください〜!」
少し赤くなった頬を見て、私は再び図書館の扉を見上げた。
***
――そして、図書館の大閲覧室。
職員に促され、ひとり足を踏み入れる。
高い、天井だった。圧倒的な質量の静寂が、上から降り注いでいる。
その正体は、本だ。壁一面……いや、すべての面が、書架で覆われていた。丁寧に装丁された本だけでなく、紐で綴られただけの資料や、おそらくこの街の記録であろうパイプ式ファイルもある。
言語も、分野も、年代も、混沌とした背表紙。
それらはきちんと分類、整理され、知の堆積をそのまま“視覚的に殴りつけてくる”ようだった。
――興奮を、抑えねばならない。
読みたい。すべてを読みたい。物語、論文、地誌、統計、理論、民話、概念系譜……
だが、いまは“探索者”として来ている。“学者”ではない。私は、耐えた。
そして、書架の奥。重厚な木製の貸出カウンターの向こう、書類と端末に囲まれた静かな机。
その席に、深緑の司書官服に身を包んだ、ひとりの女性が座っていた。
大きく巻いた螺旋角に、伏し目がちの横長の瞳孔。
……彼女が、パムェトナか。
司書であり、議政堂の管理者であり、エモツェのひとり。
彼女は、こちらに目もくれず、カウンター横の返却済み資料の山に滑らかに目を走らせ、控えていた若い司書に小声で告げる。
「……論説文は、年代別の整理でいい。このあたりの帳簿は、中間業者の記録が抜けてるわ。後で、インスティナに突き返しておいて」
「パムェトナ女史、忙しい中すまないな」
私が声をかけると、ようやく手を止め、彼女はぴたりと視線を上げた。
「……エモシュカに頼まれたから、時間を取っただけよ。断っても断っても、必死にすがってくるから仕方なく……ね」
淡々と告げる声には呆れの色も混じっていたが、苦笑の余韻があった。
「おや? エモシュカ女史は“顔パス”……いや、“幹部待遇”という表現だったと記憶しているが?」
思わず、さきほどの“ドヤ顔”を思い出す。まるで自分のコネで余裕突破できるとでも言った、自信たっぷりの笑みだった。
「そんなはずないでしょ。エモツェと言っても、管轄が違えば一般人と同じ。関係者以外は原則面会禁止よ。ただでさえ忙しいのに」
言葉こそきついが、パムェトナの指先はすでに書類の仕分けを再開している。どうやら、“仕方なく”のわりに、話す気はあるらしい。
「……手を動かしながらでもいいかしら?」
「かまわんよ。エモシュカ女史には、貸しをひとつ作ってしまったな。私のことはなんと?」
パムェトナは書類の端を揃えながら、無表情に答える。
「“変人だけど、ものすごく頭が良くて、娘思いで、あの子の命の恩人”……と」
そして、口元を微笑みにかえ、眉は少し寄せた。
「20回くらい繰り返してたわ。語彙や語気を変えながら、同じ事を何度も何度も。貸しは、ひとつで済まさない方がいいわね」
私は思わず口元を緩める。
「“娘思い”で押したのか。さすが女版スヴェルカだ」
そもそも、この街には"娘"という概念すらないのに、そこで押すとは……。
“実にいじらしい”と言いかけて、私は口を閉じた。やつらのような不憫枠に、そんな甘さは向けてはならない。
「……そうね。あとは、“この街の外から来た人”とも」
パムェトナの口から漏れた言葉に、私は顎をわずかに引いた。
「……それで、キミは?」
パムェトナは少しだけ私を見てから、すぐに目を逸らす。横長の瞳孔の奥は、まるで活字のように沈黙していた。
「もちろん、信じてないわ」
ぴたりとした口調だったが、一蹴ではなく保留、といった感じだ。
私は静かに、胸の前で指を組む。
「その懐疑心は持ったままでかまわんよ。今日は話をしたいだけだ」
カウンターの隅、パムェトナは背筋を伸ばし、書類の束を仕分け続けている。会話と作業を並行できる者の、整然とした所作だ。
彼女は、分厚い書類ファイルをカートに収め、わずかに顎を上げてこちらを見た。
「でも、できるのは……せいぜい、世間話くらいね」
「というと?」
「もちろん、この街の構造についてなら……私は誰よりも詳しいわ。他のエモツェたちが知らないことも、いくつか知ってる。でも、それを誰にでも話すほど私は愚かじゃない」
彼女は静かに断言した。その声音に、嫌味も警戒もなかった。ただ、事実として。その慎重さが、彼女の“格”なのだろう。
私は頷く。
「それはもちろんだ。こちらも、機密情報を開示しろと迫るつもりはないよ」
「……なら、なぜ来たの?」
「答え合わせをしに来た」
パムェトナの指が、一瞬だけ止まる。
だがすぐに動き出し、次の分類カードを確認しながら淡々と問い返す。
「……答え合わせ?」
私は一歩だけ歩を進め、並ぶ背表紙の列を背に立つ。そして、静かに語る。
「私はすでに、この街の仕組みについて、ある程度の仮説を立てている。だが、キミに求めるのは真偽の判定でもない。欲しいのは……キミの反応だ」
「……なるほど。私がその仮説を聞いた時の、心の揺れを読みたいのね?」
「そう。私は尋問官ではない。そして、君は記録の番人だ。論拠なき雑話では、いかなる“知”も動かせまい」
パムェトナはゆっくりと椅子に座り直し、目の前の一冊に指をかけた。そしてその指先で、ゆっくりと頁を一枚、めくる。
「……いいわ。聞きましょう」
「おや、寛容だな。時間の無駄と切り捨てられることも、想定していたが」
「判断はまだ保留。でも、取るに足る仮説かどうかは、聞いてみないとわからないもの」
その声音は、冷静で、そして……わずかに、楽しんでいるようにも聞こえた。
私は息を整え、背筋を伸ばす。
「では、始めよう」
静かに語りはじめたその声は、書架の奥へと沈んでいく。
パムェトナの指は、ちょうどその瞬間にも、頁をもう一枚だけ、ゆっくりとめくった。
――第六旅程『Pamětná』へ……




