第62幕:『退院と帰路』
「……そう、もう大丈夫なのね?」
そう言って、ラスカヴァは微笑んだ。いつもの、穏やかな声音と、なにかを見透かすような静けさ。
病室の窓からは、薄曇りの朝光が差し込んでいる。少女は毛布の上で膝を抱えて座り、私とラスカヴァのやり取りを静かに見つめていた。
「うむ。今朝方、体の各部を確認した。心肺機能、神経反応、筋力の戻り、すべて問題はなかった。アジュールの心臓が“本調子”を取り戻したのだろう」
「そう……」
ラスカヴァは、一瞬だけ視線を伏せる。そのまま、何か言いかけて、やめたような気配があった。
「退院の手続きはこれからだが、手短に済むだろう。この病棟に医療記録の概念があるのかは疑問だがな」
「ふふ……そうね。この街はアナタの世界と違って、カルテ文化というのはないわね」
ラスカヴァが柔らかく笑う。そして、病室のドアに向かいながら、さらりと口にした。
「インスティナとルースカには、こちらから伝えておくわ。部下の駅員に頼めるから」
「……そうか。助かる」
「……この後は、その子と一緒に戻るんでしょう?」
ラスカヴァの視線が、少女に向かう。少女は少し恥ずかしそうに、うなずいた。
「じゃあ、スルドツェの駅まで、ご一緒してもいいかしら?」
目線を戻す仕草には、押し付けのないやわらかさがあった。私は小さく頷く。
病院の廊下に出ると、受付はまだ人の気配が薄い。控えていた看護師が、こちらに気づいて立ち上がった。
「退院の手続きをお願いしたいのだが」
「あ、はい。お名前……あ、『先生』ですね」
「……やはり私はここでも“先生”なのか……?」
だが、まあ"異世界の人"とか"詐欺師"とか書かれなかっただけでも、よしとする。
「お支払いに関しては、ルースカさんのほうから“まとめて払う”と伺ってまして。会計は不要です」
「ふむ……また貸しが増えたな」
私は小さく息を吐く。
この街は、なろうテンプレに対して割と厳しい。ギリギリで命を助けられた村人が、妙に近代的な医療施設に運ばれ入院。でも、誰もツッコまない、“え? この医療費どこから出てるの?”。――それ系のアレ。
そんな謎の医療保険システムはない。つまり、四日間の入院費用は安くはない。手持ち(※スヴェルカの財布)では足りなかったろう。
「では、手続きは以上です。お気をつけてお帰りください」
ラスカヴァが軽く会釈し、私は病院の玄関扉を押した。外気が、ゆるやかに頬を撫でる。
石畳の通り沿いに、トラムの停留所が見えた。ラスカヴァは、少女の手を優しく引いて歩き出す。私はその後を、やや離れてついていく。そっと白衣の裾を直し、無言で歩調を合わせた。
遠くから、ガタン……と線路を伝う音が聞こえてきた。トラムのシルエットが、朝靄のなかから姿を現す。
車内に足を踏み入れると、まだ空いていた。朝の通勤ラッシュには少し早い時間帯。ガタン、と車体が揺れるたび、どこか眠気の残る振動が腰に伝わる。
ラスカヴァは、少女を窓際に座らせ、その隣に腰かけていた。私は進行方向に背を向けて、向かいに座った。
「先生、昨夜はちゃんと眠れた?」
「うむ。仮面劇と感情の波の応酬に晒されたが、最終的には脳が強制シャットダウンした。今朝はむしろ快調だ」
「仮面劇……もしかして、エモシュカが来てたの? 舞台衣装のままで……?」
少女がくすりと笑い、ラスカヴァも目元だけで笑った。
「なんだか……楽しそうね」
「当然だ。私は娘のために“愉快なパパ”であることを心がけている。将来、成人した娘と晩酌しながら、『あの頃はウザかったけど、思い返すと楽しかったよ』と語らう系だ」
少女がぱっと顔を上げた。
「まるで……濃すぎるチゲ鍋の雑炊ね! もったいないから、“食うしかない”って決意して、苦悶の顔で掬って……。無理して食べきったあと、"二度と食うか"って思うのに、一か月後くらいに、また食べたくなる……そういう味」
「……ふむ。つまり私は、“思い出補正だけで旨くなるタイプ”というわけか」
ラスカヴァが、頬に手を添えて笑った。
「ふふ、胃が落ち着いた頃に“あれ、美味しかったかも”って錯覚するやつね」
彼女の声には、あきれと慈しみが混じっていた。
「思い出補正とは実に素晴らしい現象だ。感情のまま後輩を怒鳴り散らしただけの先輩が、数年後には『あいつ、今ごろ感謝してるだろ』としみじみ思えるのだ」
少女が静かに瞳を閉じる……。
「いびられた方の心には、“怖かった”がそのまま残るのに、いびった方の心には、“やさしかった”がいつの間にか咲いてる。そんな……不思議な咲き方。記憶っていう庭の春だよね」
「……ふむ、私のオハコの“俺悪くない”が浄化されたな」
「浄化されてないわよ。ちゃんと反省しなさい……?」
ラスカヴァが微笑みながら声を漏らした。
車窓の外には、街の風景がゆっくりと流れていく。スルドツェの塔も、もう間近だった。
「さて……私はオブロークまで乗るから」
ラスカヴァがそう言って、少女の髪をそっと撫でた。
「お仕事?」
「ええ。今日はちょっとだけ忙しいの」
トラムがスルドツェの停留所に差し掛かる。ブレーキの音とともに、車両が緩やかに傾いた。
「じゃあ、ここで。また……夜にでも、と言いたいところだけど……仕事が溜まってるの。先生も、無理しないようにね」
「無理とは、“他者から強制される努力”のこと。私がするのは、すべて自助努力だ」
「ふふ……じゃあ、自助努力のしすぎにも気をつけて」
「……うむ。まあ善処しよう」
私は立ち上がり、少女の手を取る。
ラスカヴァに背を向けて、降車口へと向かう途中。ふと、視線を感じて振り返った。
こちらを見つめていたラスカヴァと目が合うと、彼女はもう一度だけ微笑んだ。
私は軽く笑い返し、無言で振り向いてホームへ降りた。
「さて。オルローグくんも、待っているだろう。スヴェルカくんの方は……インスティナに解放されたかは知らないがね」
少女は小さく頷き、私の手をそっと握った。あの塔の時打ちが、かすかに、どこかで鳴っていた。
――第63幕へ……




