第61幕:『それでも、幕が開くなら』
しばらくは、黙ってふたりでベンチに座っていた。
風は弱く、光源はまだ低い。
エモシュカはマントに包まりながら、膝に額を乗せ、目を閉じていた。
仮面のない彼女は、音を立てなかった。呼吸も、身じろぎも、気配すらも控えめ。まるで、"誰にも見つかりたくない"とでもいうふうだ。
「……あの…先生」
ようやくその口から、言葉がこぼれた。
「この街って……みんな、どこかで“役割”を持ってますよね?」
私は、曖昧に頷いた。この手の問いは、答えを求めていない。ただ、聞いてほしいのだ。
「インスティナさんは、流通で街を回して……。ラスカヴァさんは、トラムで人を運んで……。ルースカさんは、街を作ってる……」
彼女の声は淡々としていたが、どこか乾いていた。だが、その後の言葉では、ほんの少し呼吸が揺れた。
「……わたし、劇場……のオーナーですけど。演劇って“街を支える役割”じゃなくて……あの……ただの……“飾り”…なんですよね。なんかこう、ないならないで大丈夫……みたいな」
そう言って、彼女はマントの端を握りしめた。そして、そのまま小さく笑う。
「……だから…わたし…。誰かに、"キミの役割は重要だ"……って言って欲しいなって。そんなふうに……思ってて」
朝の風が、マントの裾を揺らした。その動きに合わせるように、彼女の声は少しずつ、解けるように続く。
「……でも、演技って……"本当の自分を隠す"ってことだから……。それを必要とされたら……それはそれで……“本当のキミ”はいらないって言われてるみたいで……」
「……ふむ」
その考えは、人によっては"めんどくさい考え方だ"と感じるだろう。……というか、私も今まさに、"ぶっちゃけこの女めんどくせーな"と思っている。
だが多かれ少なかれ、人間とはジレンマを抱えて生きている。
「ならば、仮面など外せばいいのではないかね? "本来の自分で劇をこなし、それが必要とされる"。理想的だろう?」
彼女は、静かに笑った。
「……それができりゃ、苦労してませんって……」
仮面は、まだ膝の上にある。まるで自分の顔の一部みたいに、ずっとそこに置かれていた。
「でも昨夜…先生は……素顔のわたしからも、……ちゃんと話、聞いてくれたから……」
エモシュカは、ふと顔を上げた。その視線は、まだ不安げだったが、それでもまっすぐだった。
「……なんか、ちょっとだけ、救われました」
――私は、しばし黙った。
返すべき言葉はあるのだろう。しかし、それが整いすぎていると安っぽくなる。これも、ある種のジレンマだ。
だが、ようやく口を開く。
「……ふむ、つまりキミは、“社会的承認を必要とする寂しがり屋の演劇クラスタ”だったわけだな」
「……もうちょっと言い方ってもんがあると思うんですけどぉ!?」
「だが間違ってはいまい?」
「……う、まぁ、否定はしないですけど……っ」
彼女は苦笑したまま、フードの縁をいじる。
そして、空を見上げた。ゆっくりと明るみを帯びてきている。
「……そろそろ、始発、来る時間ですね」
「そうだな」
エモシュカは、ゆっくりと立ち上がる。マントをひとつ払い、仮面をバッグの中へとしまう。
昨日のような演出は、もうない。ただ素の彼女が、そのままの姿で、夜明けに向かって立っていた。
「……じゃあ、行きますね。ありがとうございました、先生」
私は頷いた。
彼女は、ゆっくりと歩き出す。足取りは、昨夜よりも軽い。
だが少し歩いてから、ふと足を止める。そして、少しだけ振り返った。
「……あの、先生」
声は、そのままの彼女の声。
「……わたし、他のエモツェの感情って、なんとなく感じ取れるって……言ったじゃないですか」
「うむ。“エアリプ感知型センサー”だったな」
「いや、その言い方はアレなんですけど……はい」
彼女は小さく肩をすくめ、ほんのり照れたあと、すぐ真顔に戻る。
「……さっき。ラスカヴァさんが、先生のこと……考えてました」
私は、少しだけ眉を上げる。
「ふむ、どんな考えだね?」
「……あっ、そこまでは。でも、すごく、こう……“嬉しそう”でした。それで、たぶん……今日も、出勤前に……お見舞いに来ると思います」
「……ほう」
「だから、できれば出発する前に、病室で待っててあげてください……」
風が、彼女のマントをそっとなでた。
「……あの人、言葉が不器用だから……ちょっとでもタイミング逃すと、ぜんぶ飲み込んじゃうと思うんです」
エモシュカの声に、わずかな優しさが混じる。
昨日までは“演者”だった彼女が、今は誰かの感情を代弁する“橋渡し”として、そこに立っているようだった。
「……ふむ、忠告、感謝する。キミは“仮面の使者”としてはポンコツがすぎるが、“受信機”としては有用だ」
「そこまで言わなくていいんですけどぉ!?」
彼女は少しむくれたように肩をすくめ、それでも微笑んだ。
「……じゃあ、行きますね」
そう言って、改めて歩き出す。
「……エモシュカ女史」
その名を呼ぶと、彼女は一瞬立ち止まった。振り返りはしなかった。
「思考がループするときは、他者との対話が有効だ。私の考察が必要なら、また来たまえ。仮面は外してな。パッドは……任意で構わん」
「うぅ……その最後だけいらない〜っ!」
そう言い残して、彼女は手だけ振りながら、駅の方へと歩いていった。
足音が遠のく。その背中はただ、"誰かのために、ほんの少し役に立ちたい"と思う、ひとりの女の子の背中だった。
――私はベンチから立ち上がり、ひとつだけ息を吐いた。誰かの役に立ちたいと願う気持ち。この街に生まれ、この街に縛られながら、それでも。
舞台に立ちたいと願った彼女の姿を、私はどこかで、懐かしく感じていた。
始発の音が、遠くで響いた気がした。
――第62幕……




