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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第五旅程『Emoška』
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第60幕:『仮面は、夜に還る』



 「……だいたい、事情はわかった」

 

 私は紅茶を飲み干し、紙カップをそっとベンチの脇に置いた。


 「夜も遅い。今日はもう帰りたまえ」

 

 彼女は、すぐには立たなかった。仮面を両手に持ったまま、わずかにうつむく。

 そして、こくんと頷いた。


 「……ありがとうございました」

 

 その声には、もう芝居の気配はない。ただ、温度のある声だけが、夜の空気を割った。

 私は何も返さずに、立ち上がる。彼女もそれに倣って、静かに腰を上げた。衣装の入ったボストンバックを肩にかけ、仮面はまだ胸に抱えたまま。そのまま、彼女はそろそろと歩き出す。

 駅のほうへ向かって、スウェット姿で。背中を丸め、やや内股気味に、小刻みな歩幅で。


 「……ジェスターハットは良いのかね?」


 ふと口をついて出た言葉に、彼女は足を止めた。数拍置いてから振り返り、ベンチまで小走りで戻ってくる。

 ジェスターハットをひったくるように掴むと、そっと仮面と共に胸に抱いた。


 「はい……ありがとうございます」


 そのまま、またトボトボと歩き出す。

 風が背中のフードを揺らす。やがて彼女の姿は、角を曲がって消えた。


 私は、ベンチの前にしばらく立ち尽くしていた。そこには、湯気の消えた紙カップが二つ。二つを重ね、そのまま手に持つ。それから、ゆっくりと病院の方角へと歩き出した。


 ――そう、彼女の芝居の幕は下りたのだ。"謎めいたエモツェ"ではなく、"不憫枠"として……。


 私は病院の玄関を抜け、ゆるい廊下を進んでいく。薄く光る常夜灯を、床のタイルが鈍く反射する。

 階段を上がり、病室の扉の前に立つ。もちろん、その扉は閉じられたままだ。

 私は左手でドアノブをそっと回す。病室のベッドの上では、少女が静かに眠っていた。

 毛布の端がめくれていたので、私はそれを直し、椅子を引いてベッドの隣に腰を下ろす。右手に持っていた紙カップは、ゆっくりとゴミ箱に入れた。

 

 「……夜の演者は、やっと帰っていったよ」

 

 誰にともなく呟いて、私は深く息を吐いた。少女の寝息が、規則正しく続く。

 私は椅子にもたれたまま、静かに目を閉じた。


***


 ――そして翌朝。相変わらず光源はおぼろげだが、まだ空は薄暗い。

 私は、少女の寝顔を一瞥してから、病室を抜け出した。

 起こすつもりはない。私が倒れてから、まともに眠れていなかったらしい。その疲れが、彼女のまぶたを深く引き下げていた。

 病院の廊下には人影がない。宿直の看護師に散歩に出ると告げ、廊下の先の扉を開く。この時間なら、誰にも会わないだろう。


 そのまま、病院に隣接する小さな公園へと出た。空気は冷たいが、湿度は少ない。芝生の端には霧が降りている。

 私は、白衣のポケットに手を入れたまま、公園の奥へと歩く。身体が軽い。呼吸は深く、視界は冴えている。

 どうやら、完全に回復している。

 私は芝生に一歩踏み出し、軽く肩を回す。次いで、地面を蹴って前へ滑り、足裏の接地と反発を確かめながら、数歩のステップを試す。


 ……良い。反応速度も、平衡感覚も申し分ない。竜の心臓による身体強化も、しっかりと機能している感触だ。

 これなら、階段の手すりからバク転で飛び降りたりもできるだろう。


 ――だが、やらない。


 あれがサマになるのは、MVか良い感じに編集されたYouTubeショートだけだ。

 素人のバク転は一瞬止まる。腕の振りと脚の溜めが噛み合わず、“間”が生まれる。息を止めたまま着地し、フラつきながら「イェーイ!」でごまかす。

 思春期とは編集不可のMVを生きることである。……私はもう、そこにはいない。

 

 私はゆっくりと息を吸った。朝の匂いがする。湿った土と葉の匂いが、肺に染み込む。

 そして、ふと気づく。視界の隅、公園の一角。古びたベンチの上に、赤黒い布が置かれていた。

 いや……ただの布ではなくマントだ。それも、かなり見覚えがある。


 私は足を止め、わずかに目を細めた。マントの下は、明らかに膨らんだ起伏がある。

 近づくにつれ、それが“人間の形”であると分かった。

 そして、そのマントの端から覗くもの。それは柔らかな頬と伏せられた目元。そして、乾きかけた、涙の跡。 

 脚を折り、朝の冷えに身を丸め、マントを頭までかぶった女。――エモシュカだ。

 彼女が、ベンチの上で小さくなって眠っている。


 ……なぜ、ここで?


 私は無言で立ち尽くす。彼女の寝息は、わずかに不規則で、深くはない。泣き疲れて眠った子供のような呼吸。

 私の胸の奥に、小さく重さが落ちた。

 昨夜確かに、スウェットでトボトボ駅に向かったはずの彼女が、何故かここで眠っている。


 ――帰らなかったのか?それとも、帰れなかったのか?

 眠る彼女にそれを問うことは、まだできない。今はできることだけをしよう……。

 

 私はベンチに背を向け、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。昨晩の会話を要約し、書き留めたページをめくる。

 そして、そっと書き足す。


 《エモシュカ:朝、ベンチで眠る、理由不明(補足:頬に涙の跡)》


 ――そう、これは観察記録である。


 「……ぅ……」

 

 微かな寝返りの音に、私は振り返る。視線の先、マントの裾から半分顔を出した彼女が、こちらを見ていた。


 「……ん…あれ……せんせ……?」


 掠れた声。どこか、まだ夢のなかにいるようだった。片頬にはベンチの木目の跡がはっきり残る。


 「……すまないな、起こしたか」


 「……あぅ…いぇ。なんか、気配で、目ぇ覚めちゃって……」


 彼女はゆっくりと身を起こし、マントを直す。その手が、少しもたついた。声も、動作も、ぜんぶが力ない。――もはや、素の自分を隠す余裕すらない。


 「……徹夜だったのか?」


 問いかけに、彼女はふるり、と小さく首を振る。


 「あ……いえ、ちゃんと、ベンチで…眠れました…。あっと、1時間くらいは……」


 ふむ……。"それほぼ徹夜では?"と思ったが、やっぱり言わない。


 「あの…元々は本当は……昨日は……終電で帰るつもりだったんですけど……」


 「……元々は終電。ということは……」

 

 「……はい……そのあと、先生としゃべってたから……間に合わなくなっちゃってて……」


 「……」


 「で……駅のホームまで行ったとこで…気づいて……"あっ、トラムもうない!"……って……」

 

 言い終わったあとに広がる沈黙の間。私はため息をひとつだけ吐き、踵を返す。


 「それは気の毒だったな。……が、私に責任はない。……始発で帰りたまえ」

 

 「わ、わかってますってば……! その、ぜんっぜん怒ってるとかじゃないので……!」


 小さく振る手が、マントの中からぴょこっと覗く。

 

 「……ただ、ですね……」


 急に、声のテンポが落ちた。


 「この公園……夜になると……ですね。すごく、音がなくなるんです……」

 

 「……」


 「トラムの音もないし……風もあんまり吹かなくて……たまに、葉っぱが……カサッて、こすれるくらいで……」


 マントの中で膝を抱えたまま、指先がちょん、ちょん……と布を摘んでいた。


 「……こわいってのとは、ちょっと違うんですけど……なんか、その……心細かった…というか……」


 私は言葉を探しかけて、やめた。かわりに、彼女の声だけが朝に溶けていく。


 「あの……だからせめて……始発が来るまでで、いいので……」

 

 顔は上げないまま。膝に頬をのせるようにして、視線だけを、私のほうへ。


 「……あの、ちょっとだけ……一緒に…とか」


 私は小さくため息をしてから、ベンチの端に腰を下ろした。


 「……ひとことだけ、言っておく」


 「……はい……」


 エモシュカは、力無く肩を落とす。まあ、ここは普通に断られる流れだと思ったのだろう。

 だが、昨晩あんな酷い目にあってから、公園で夜を明かすハメになった目の前の女に対して、全く憐憫を感じないわけではない。

 彼女の境遇に対しては、一切責任は感じないが。……さすがの私にも人の心は少しある。……たぶん。

 たぶん、だが。

 

 「エモシュカくん、これは同情ではない。更なる情報収集だ」


 「……は、はいっ! ありがとうございます……」


 彼女は、小さく笑った。目尻が、ほんの少しだけ、やわらかくなっていた。

 ……ちなみに、エモシュカを"あんな酷い目"に合わせたのは他ならぬ私だが、彼女本人がなんとなく納得しているようなので、改めて言うようなことではない。

 

 夜はまだ明けきらないが、光源は少しずつ昇り始めていた。



――第61幕へ……

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