第60幕:『仮面は、夜に還る』
「……だいたい、事情はわかった」
私は紅茶を飲み干し、紙カップをそっとベンチの脇に置いた。
「夜も遅い。今日はもう帰りたまえ」
彼女は、すぐには立たなかった。仮面を両手に持ったまま、わずかにうつむく。
そして、こくんと頷いた。
「……ありがとうございました」
その声には、もう芝居の気配はない。ただ、温度のある声だけが、夜の空気を割った。
私は何も返さずに、立ち上がる。彼女もそれに倣って、静かに腰を上げた。衣装の入ったボストンバックを肩にかけ、仮面はまだ胸に抱えたまま。そのまま、彼女はそろそろと歩き出す。
駅のほうへ向かって、スウェット姿で。背中を丸め、やや内股気味に、小刻みな歩幅で。
「……ジェスターハットは良いのかね?」
ふと口をついて出た言葉に、彼女は足を止めた。数拍置いてから振り返り、ベンチまで小走りで戻ってくる。
ジェスターハットをひったくるように掴むと、そっと仮面と共に胸に抱いた。
「はい……ありがとうございます」
そのまま、またトボトボと歩き出す。
風が背中のフードを揺らす。やがて彼女の姿は、角を曲がって消えた。
私は、ベンチの前にしばらく立ち尽くしていた。そこには、湯気の消えた紙カップが二つ。二つを重ね、そのまま手に持つ。それから、ゆっくりと病院の方角へと歩き出した。
――そう、彼女の芝居の幕は下りたのだ。"謎めいたエモツェ"ではなく、"不憫枠"として……。
私は病院の玄関を抜け、ゆるい廊下を進んでいく。薄く光る常夜灯を、床のタイルが鈍く反射する。
階段を上がり、病室の扉の前に立つ。もちろん、その扉は閉じられたままだ。
私は左手でドアノブをそっと回す。病室のベッドの上では、少女が静かに眠っていた。
毛布の端がめくれていたので、私はそれを直し、椅子を引いてベッドの隣に腰を下ろす。右手に持っていた紙カップは、ゆっくりとゴミ箱に入れた。
「……夜の演者は、やっと帰っていったよ」
誰にともなく呟いて、私は深く息を吐いた。少女の寝息が、規則正しく続く。
私は椅子にもたれたまま、静かに目を閉じた。
***
――そして翌朝。相変わらず光源はおぼろげだが、まだ空は薄暗い。
私は、少女の寝顔を一瞥してから、病室を抜け出した。
起こすつもりはない。私が倒れてから、まともに眠れていなかったらしい。その疲れが、彼女のまぶたを深く引き下げていた。
病院の廊下には人影がない。宿直の看護師に散歩に出ると告げ、廊下の先の扉を開く。この時間なら、誰にも会わないだろう。
そのまま、病院に隣接する小さな公園へと出た。空気は冷たいが、湿度は少ない。芝生の端には霧が降りている。
私は、白衣のポケットに手を入れたまま、公園の奥へと歩く。身体が軽い。呼吸は深く、視界は冴えている。
どうやら、完全に回復している。
私は芝生に一歩踏み出し、軽く肩を回す。次いで、地面を蹴って前へ滑り、足裏の接地と反発を確かめながら、数歩のステップを試す。
……良い。反応速度も、平衡感覚も申し分ない。竜の心臓による身体強化も、しっかりと機能している感触だ。
これなら、階段の手すりからバク転で飛び降りたりもできるだろう。
――だが、やらない。
あれがサマになるのは、MVか良い感じに編集されたYouTubeショートだけだ。
素人のバク転は一瞬止まる。腕の振りと脚の溜めが噛み合わず、“間”が生まれる。息を止めたまま着地し、フラつきながら「イェーイ!」でごまかす。
思春期とは編集不可のMVを生きることである。……私はもう、そこにはいない。
私はゆっくりと息を吸った。朝の匂いがする。湿った土と葉の匂いが、肺に染み込む。
そして、ふと気づく。視界の隅、公園の一角。古びたベンチの上に、赤黒い布が置かれていた。
いや……ただの布ではなくマントだ。それも、かなり見覚えがある。
私は足を止め、わずかに目を細めた。マントの下は、明らかに膨らんだ起伏がある。
近づくにつれ、それが“人間の形”であると分かった。
そして、そのマントの端から覗くもの。それは柔らかな頬と伏せられた目元。そして、乾きかけた、涙の跡。
脚を折り、朝の冷えに身を丸め、マントを頭までかぶった女。――エモシュカだ。
彼女が、ベンチの上で小さくなって眠っている。
……なぜ、ここで?
私は無言で立ち尽くす。彼女の寝息は、わずかに不規則で、深くはない。泣き疲れて眠った子供のような呼吸。
私の胸の奥に、小さく重さが落ちた。
昨夜確かに、スウェットでトボトボ駅に向かったはずの彼女が、何故かここで眠っている。
――帰らなかったのか?それとも、帰れなかったのか?
眠る彼女にそれを問うことは、まだできない。今はできることだけをしよう……。
私はベンチに背を向け、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。昨晩の会話を要約し、書き留めたページをめくる。
そして、そっと書き足す。
《エモシュカ:朝、ベンチで眠る、理由不明(補足:頬に涙の跡)》
――そう、これは観察記録である。
「……ぅ……」
微かな寝返りの音に、私は振り返る。視線の先、マントの裾から半分顔を出した彼女が、こちらを見ていた。
「……ん…あれ……せんせ……?」
掠れた声。どこか、まだ夢のなかにいるようだった。片頬にはベンチの木目の跡がはっきり残る。
「……すまないな、起こしたか」
「……あぅ…いぇ。なんか、気配で、目ぇ覚めちゃって……」
彼女はゆっくりと身を起こし、マントを直す。その手が、少しもたついた。声も、動作も、ぜんぶが力ない。――もはや、素の自分を隠す余裕すらない。
「……徹夜だったのか?」
問いかけに、彼女はふるり、と小さく首を振る。
「あ……いえ、ちゃんと、ベンチで…眠れました…。あっと、1時間くらいは……」
ふむ……。"それほぼ徹夜では?"と思ったが、やっぱり言わない。
「あの…元々は本当は……昨日は……終電で帰るつもりだったんですけど……」
「……元々は終電。ということは……」
「……はい……そのあと、先生としゃべってたから……間に合わなくなっちゃってて……」
「……」
「で……駅のホームまで行ったとこで…気づいて……"あっ、トラムもうない!"……って……」
言い終わったあとに広がる沈黙の間。私はため息をひとつだけ吐き、踵を返す。
「それは気の毒だったな。……が、私に責任はない。……始発で帰りたまえ」
「わ、わかってますってば……! その、ぜんっぜん怒ってるとかじゃないので……!」
小さく振る手が、マントの中からぴょこっと覗く。
「……ただ、ですね……」
急に、声のテンポが落ちた。
「この公園……夜になると……ですね。すごく、音がなくなるんです……」
「……」
「トラムの音もないし……風もあんまり吹かなくて……たまに、葉っぱが……カサッて、こすれるくらいで……」
マントの中で膝を抱えたまま、指先がちょん、ちょん……と布を摘んでいた。
「……こわいってのとは、ちょっと違うんですけど……なんか、その……心細かった…というか……」
私は言葉を探しかけて、やめた。かわりに、彼女の声だけが朝に溶けていく。
「あの……だからせめて……始発が来るまでで、いいので……」
顔は上げないまま。膝に頬をのせるようにして、視線だけを、私のほうへ。
「……あの、ちょっとだけ……一緒に…とか」
私は小さくため息をしてから、ベンチの端に腰を下ろした。
「……ひとことだけ、言っておく」
「……はい……」
エモシュカは、力無く肩を落とす。まあ、ここは普通に断られる流れだと思ったのだろう。
だが、昨晩あんな酷い目にあってから、公園で夜を明かすハメになった目の前の女に対して、全く憐憫を感じないわけではない。
彼女の境遇に対しては、一切責任は感じないが。……さすがの私にも人の心は少しある。……たぶん。
たぶん、だが。
「エモシュカくん、これは同情ではない。更なる情報収集だ」
「……は、はいっ! ありがとうございます……」
彼女は、小さく笑った。目尻が、ほんの少しだけ、やわらかくなっていた。
……ちなみに、エモシュカを"あんな酷い目"に合わせたのは他ならぬ私だが、彼女本人がなんとなく納得しているようなので、改めて言うようなことではない。
夜はまだ明けきらないが、光源は少しずつ昇り始めていた。
――第61幕へ……




