第58幕:『負けられぬ戦い』
フードを目深に被ってうずくまり、肩を震わせてメソメソと泣く女。可哀想な女優崩れを前にして、一緒たじろぐ。
――だが、私は即座に思考を切り替えた。感情に流されるのは、素人である。この場面は、冷静に“構造”を見ねばならない。
まず、相手の服装だ。パーカー。スウェットパンツ。フードを目深にかぶり、うずくまっている。
――一方、私は白衣である。
医療関係者でもなければ、科学実験中でもない。ただ、くたびれた白衣を羽織ったまま、夜の公園に立っているだけの男だ。
むしろ“病院を抜け出してきた側”の人間なのに、である。
そして、夜の暗がり。周囲に人影はない。……つまり――圧倒的優位である。
先程は、完全に虚を突かれた。こちらに準備も心構えもなく、奇抜な芝居衣装の人物が唐突に現れたのだ。『いや、まずその格好なに!?』と口にすべきか迷っているうちに、会話は勝手に進み、結果として私は相手の退場を許した。
だが、いまこの瞬間。灯りの下に残されたのは、スウェットのスッピン女と、意味なく白衣の男だけ。
つまり、この公園の片隅において、私は、最高のアドバンテージを得たのだ。
私は、深く息を吸った。
呼吸は整っている。視線は定まっている。背中もまっすぐに伸びている。
――そう。ここが、私の舞台だ。
私は歩み寄る。フードを深く被った女の前に、わざと音を立てて足を止めた。
そして……白衣の裾を翻し、威厳たっぷりに告げる。
「では、エモシュカ女史。キミに確認したいことがある」
「えええっ!? この状況で続けるんですか!? 涙目でうずくまってる女に対して!?」
「当然だ。私は娘でもない女に対して冷酷である」
「酷い発言があまりにも明言……!」
「私は、自他共に認める“冷血科学パパ”だからな。娘の前では心よりの情愛を示し、善人の前では人道の偽装を試みる。だが今、私の目の前にいるのは誰だ?」
私はわざと芝居がかったポーズで、指を天に突き上げた。夜空は黙っていた。
「……たぶん、“めんどくさい人”だと思います……」
「その通り。私はその手の人間に対して一切の慈悲は持たぬ。ただ、自らの望むままに振る舞うのみである」
「ううっ……迷惑っぽい言い回し……」
「では本題。まず第一に、この街はどうやって生まれた?」
「いや!! 無理ですって! この状況でさっきの流れは無理です!」
しゃくり上げながら、仮面を両手で隠すように抱えるエモシュカ。
「もう一回衣装を……いや、せめて弁解を! 弁明をさせてくださいっ!」
「それを許して、私になんのメリットが?」
「鬼ですか!?」
「それは否定するが、それに近しい何かしらである事は否定できない」
「と、とにかく無理です! 一旦、体勢を! 体勢だけでも立て直させてください〜っ!」
私は、じっと彼女を見下ろす。
涙目でフードの端を握り、地面に這うようなその姿。あまりに幕裏すぎて、もはや舞台の概念が瓦解しそうだった。
「……いいだろう。10分だけ猶予をやる」
「お、お慈悲っ……!」
私は静かにその場を離れ、病院へ戻ることにした。いや、実際、こちらにも目的はある。
個室のドアを開ける。ベッドの上には、穏やかな寝息を立てる我が娘の姿。白い毛布が肩までかかり、ほんの少し、髪だけが枕に零れていた。
「……尊い」
私は静かに呟く。そう。世界には“赦し”や“慈愛”などという情動が確かに存在するのだ。
紅茶を淹れる。香りは柔らかく、温度も適温。紙カップを両手に持ち、肘でドアノブを押して音を立てずに病室の扉を開ける。
そして、再び――
夜の公園に戻ると、ベンチの上にエモシュカが座っていた。スウェットはそのまま。だが、仮面はまだ胸に抱いたまま。
逃げられることも想定はしていた。が、律儀に待っていたらしい。
……えらい。
もちろん、逃げたところで意味はない。仮に逃げたとしても、こちらは既に“弱み”を握っている。相手は、この街で立場を持つ人物。劇場オーナーであり、エモツェだ。
――見栄も沽券もあるのだ。追い詰めるのは容易い。
私は紙カップを差し出した。
「……冷めないうちに、飲みたまえ」
エモシュカは少し目を見開く。そして、そっと受け取る。
「……ありがとうございます……」
私は隣に腰を下ろし、膝に手を置く。そして、間を置かずに告げる。
「では、聞こうか。弁明とやらを」
エモシュカは、そっと紅茶の香りを確かめたあと、まっすぐこちらを見た。
「……はい」
夜風が仮面をなでる。その奥で、芝居が幕を上げる音が、静かに響いた気がした。
――第59幕へ……




