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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第五旅程『Emoška』
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第57幕:『仮面のない幕間』


 ――私は、逡巡していた。


 病室に、あの子を残したままだ。長時間離れるわけにはいかない。


 だが――彼女には、まだ聞きたいことがある。

 エモツェとは、あの子の内面から分かたれた感情の断片。私の推論と、エモシュカの証言は、そこにおいて合致した。さらには“6人目”という新たな知見まで飛び出した。

 これは、確かに興味深い。


 だが、大事なのは内容ではない。"その情報を、彼女がどうやって得たのか”だ。

 仮説は、伝聞や印象のみで積んではならない。裏取りのない情報は、存在しないも同然だ。虚偽ではないとしても、それが"誰かの勘違い”というのも、よくある話だ。

 あれは本能か? 直観か?あるいは、何らかの仮説を立て、観察と検証を経た末の帰結か。


 ――だが、これらは実は“決定的に重要”とまでは言えない。

 なぜなら、エモシュカの言葉が真実か虚偽か、証拠の得ようがないからだ。つまり、結局のところ彼女の発言は仮定条件として扱う他ない。


 ――ならば、最も重要な問いに立ち返るべきだ。

 彼女は、どうやってここへ来た?そして、どうやって帰る?


 劇場は、トルハ区にある。おそらく、彼女の住まいもその周辺だろう。つまり、彼女はこの公園のある北区から、夜の街を移動して帰らねばならない。

 この街には、自動車はおろか馬車もない。この街の交通手段は、トラム。……それだけだ。


 ――あの格好で、トラムに……?


 あのマント。あの仮面。芝居口調とピエロズボン。あれが夜の車両に座って、トラムの灯りに照らされて……?

 想像するだけで、だいぶシュールである。

 あるいは、夜道をマントを引きずって一人、とぼとぼと……?それもまた別種のホラーではなかろうか。

 

 ――そこで私は、ふと思った。


 「……見たいな」

 

 トラムの座席に、マントを膝にたたんでちょこんと座る彼女を。

 車両が揺れるたびに、仮面がカタカタ鳴るのだ。

 『本日の劇場は、終了でございまする……』などと小声でつぶやきながら、誰もいない車内で、独り役を降りる彼女。

 ……いや、やはり私は病室に戻るべきか。あれだけ心配をかけたのだ、やはりあの子の側に居るべきだ。


 私の心の中で、“父としての理性”と、“科学者としての興味”が綱引きを始めた。


 ――そして。病室に戻るまでの廊下で、私は身を翻した。


 「……やはり、見たい!」


 その知的欲求に、科学者としての私は抗えなかったのだ。


 ……ここは病院だ。安全は保たれていると言ってよい。それに、彼女は聡明だ。目覚めて一人きりだったからといって、泣き喚くような子ではない。


 私は白衣の裾を払うと、病棟の踊り場を抜け、足早に廊下を進んだ。

 エモシュカが去ってから、すでに数分経っている。……だが、この街でも私の身体は、ある程度の強化がされている。

 アジュールの心臓により、心肺と筋力は底上げされている。感覚としては、坂道を自転車で下る時にだけ現れる謎の全能感に近い。


 ――ならば、まだ……追いつけるかもしれない。


 マントの裾を揺らし、突如現れた"エモツェ"。……そう、彼女の言葉、そして意識。それが、どこまでが仮面で、どこからが本音かを見極めるには……――あの背中を、もう少しだけ追う必要がある。


 再び扉を開け、エモシュカが消えた公園の闇へと向かう。病院の窓から伸びる光が、背後に遠のいていく。夜風が白衣の裾を翻すように、草の匂いと湿った土を運んでくる。

 公園内に人影はない。舗道の外灯も疎らで、視界の端が闇に溶けていく。


 だが――そのときだった。視線の隅、木々の向こうに……妙な動きがあった。

 あまりにも目立たぬ場所。遊歩道から外れた茂みの先、公園の片隅にぽつんと建つ、公衆便所の裏。

 ……そこで、何かが、もぞもぞと動いていた。


 「……ん?」


 私は足を止めた。

 なにかを脱ぐような動作。それにしても……慎重すぎる。周囲を気にしているような気配。いや、気配というには、あまりにもぎこちない。


 動く影の、その後ろ。土の上に広げられた布地。

 ……赤いマント。その一部が、風にあおられてちらりと翻った。

 続いて、白。ふわりとした、白いワンピースのような……パフスリーブ。刺繍の入ったブラウスの裾。それが、地面の上に脱ぎ捨てられている。

 さらに続けて、その人物は自らの襟元から服の中に腕を差し入れる。

 しばらくゴソゴソと胸元で手を動かしたのち、引き出された手には、厚い布地のなにか……。

 

 ――なにかというか、どう見てもぶ厚い胸パッド。

 かなり厚い。バランスを整えるヤツではない。盛るやつだ。……それも、相当


 そして、深いため息と共にそれをバッグにしまい込む、細い指先。……その指の動きだけが、やたらと繊細だった。


 私は半歩、木陰から姿勢を崩さずに身を寄せた。その人物は、ゆっくりと腰を下ろしながら髪をほどいた。濃い紫の髪。肩まで届くクセ毛。その毛先が、ぱさりと首を撫でて落ちる。


 顔はまだ、見えない。だがその瞬間――彼女が仮面を、そっと膝の上に置いた。

 ……陶製の、道化のような装飾。そうだ、私は知っている。この意匠、この仮面。


 「……は?」


 つい、私が声を漏らしたその瞬間。


 「……っ!?」


 その影は振り返った。その顔には、すでに何もなかった。仮面も化粧も消え失せていた。

 

 ――そこには、スウェット姿のスッピンの女。


 「……ぁ、……えっ……」


 明らかに、目が泳いだ。肩が跳ね、両腕が思わず胸元を押さえる。バッグの口が開き、詰めかけられたパッドや化粧品が見えかけて――彼女はあわててバッグを抱きかかえた。


 「な……な、なぜ、ここに……!」

 

 声は、掠れていた。高くて、怯えたようなトーン。

 私は思わず口を開いた。


 「……あの、だれ?」


 我ながら間の抜けた声と問いだ。こちらも完全に素だった。……余裕を失っていたのだ。


 彼女がビクッとする。そして、一瞬で顔色が青くなるのが、遠目にもわかった。


 「せ、先生……ご、ご覧になったのは……いまのは……あの……あれは……っ」


 仮面に手を伸ばすが、もう遅い。それを被ったところで、何もなかったことにはならない。

 私は、無意識に言葉を探した。だが、それより先に彼女が叫ぶ。


 「見たの!? その……その、パッド……じゃなくて! その……着替えの、途中っ!!」

 

 「……ああ、うむ。見たというか……うっかりだ。事故だ。偶然だ。不可抗力だ。私は悪くない」


 「見られたあああぁ!!!」

 

 耳をつんざく声が、公園の闇に響き渡った。

 

 そして――彼女は、仮面を拾うと、その場でうずくまり、スウェットのフードを目深に被ったまま、肩を震わせて小声で呟いた。


 「……もう無理……もう生きていけない……」

 

 私は、さすがに困惑した。いま目の前にいるのが、あの芝居口調の女と“同一人物”だという確信は……まだ薄い。だが、状況証拠があまりにも揃っている。

 ……どうしたものか。

 この、可哀想な女優崩れを前にして、私はただ、白衣の裾をそっと撫でながら、静かに咳払いをひとつした。



――第58幕へ……

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