第57幕:『仮面のない幕間』
――私は、逡巡していた。
病室に、あの子を残したままだ。長時間離れるわけにはいかない。
だが――彼女には、まだ聞きたいことがある。
エモツェとは、あの子の内面から分かたれた感情の断片。私の推論と、エモシュカの証言は、そこにおいて合致した。さらには“6人目”という新たな知見まで飛び出した。
これは、確かに興味深い。
だが、大事なのは内容ではない。"その情報を、彼女がどうやって得たのか”だ。
仮説は、伝聞や印象のみで積んではならない。裏取りのない情報は、存在しないも同然だ。虚偽ではないとしても、それが"誰かの勘違い”というのも、よくある話だ。
あれは本能か? 直観か?あるいは、何らかの仮説を立て、観察と検証を経た末の帰結か。
――だが、これらは実は“決定的に重要”とまでは言えない。
なぜなら、エモシュカの言葉が真実か虚偽か、証拠の得ようがないからだ。つまり、結局のところ彼女の発言は仮定条件として扱う他ない。
――ならば、最も重要な問いに立ち返るべきだ。
彼女は、どうやってここへ来た?そして、どうやって帰る?
劇場は、トルハ区にある。おそらく、彼女の住まいもその周辺だろう。つまり、彼女はこの公園のある北区から、夜の街を移動して帰らねばならない。
この街には、自動車はおろか馬車もない。この街の交通手段は、トラム。……それだけだ。
――あの格好で、トラムに……?
あのマント。あの仮面。芝居口調とピエロズボン。あれが夜の車両に座って、トラムの灯りに照らされて……?
想像するだけで、だいぶシュールである。
あるいは、夜道をマントを引きずって一人、とぼとぼと……?それもまた別種のホラーではなかろうか。
――そこで私は、ふと思った。
「……見たいな」
トラムの座席に、マントを膝にたたんでちょこんと座る彼女を。
車両が揺れるたびに、仮面がカタカタ鳴るのだ。
『本日の劇場は、終了でございまする……』などと小声でつぶやきながら、誰もいない車内で、独り役を降りる彼女。
……いや、やはり私は病室に戻るべきか。あれだけ心配をかけたのだ、やはりあの子の側に居るべきだ。
私の心の中で、“父としての理性”と、“科学者としての興味”が綱引きを始めた。
――そして。病室に戻るまでの廊下で、私は身を翻した。
「……やはり、見たい!」
その知的欲求に、科学者としての私は抗えなかったのだ。
……ここは病院だ。安全は保たれていると言ってよい。それに、彼女は聡明だ。目覚めて一人きりだったからといって、泣き喚くような子ではない。
私は白衣の裾を払うと、病棟の踊り場を抜け、足早に廊下を進んだ。
エモシュカが去ってから、すでに数分経っている。……だが、この街でも私の身体は、ある程度の強化がされている。
アジュールの心臓により、心肺と筋力は底上げされている。感覚としては、坂道を自転車で下る時にだけ現れる謎の全能感に近い。
――ならば、まだ……追いつけるかもしれない。
マントの裾を揺らし、突如現れた"エモツェ"。……そう、彼女の言葉、そして意識。それが、どこまでが仮面で、どこからが本音かを見極めるには……――あの背中を、もう少しだけ追う必要がある。
再び扉を開け、エモシュカが消えた公園の闇へと向かう。病院の窓から伸びる光が、背後に遠のいていく。夜風が白衣の裾を翻すように、草の匂いと湿った土を運んでくる。
公園内に人影はない。舗道の外灯も疎らで、視界の端が闇に溶けていく。
だが――そのときだった。視線の隅、木々の向こうに……妙な動きがあった。
あまりにも目立たぬ場所。遊歩道から外れた茂みの先、公園の片隅にぽつんと建つ、公衆便所の裏。
……そこで、何かが、もぞもぞと動いていた。
「……ん?」
私は足を止めた。
なにかを脱ぐような動作。それにしても……慎重すぎる。周囲を気にしているような気配。いや、気配というには、あまりにもぎこちない。
動く影の、その後ろ。土の上に広げられた布地。
……赤いマント。その一部が、風にあおられてちらりと翻った。
続いて、白。ふわりとした、白いワンピースのような……パフスリーブ。刺繍の入ったブラウスの裾。それが、地面の上に脱ぎ捨てられている。
さらに続けて、その人物は自らの襟元から服の中に腕を差し入れる。
しばらくゴソゴソと胸元で手を動かしたのち、引き出された手には、厚い布地のなにか……。
――なにかというか、どう見てもぶ厚い胸パッド。
かなり厚い。バランスを整えるヤツではない。盛るやつだ。……それも、相当
そして、深いため息と共にそれをバッグにしまい込む、細い指先。……その指の動きだけが、やたらと繊細だった。
私は半歩、木陰から姿勢を崩さずに身を寄せた。その人物は、ゆっくりと腰を下ろしながら髪をほどいた。濃い紫の髪。肩まで届くクセ毛。その毛先が、ぱさりと首を撫でて落ちる。
顔はまだ、見えない。だがその瞬間――彼女が仮面を、そっと膝の上に置いた。
……陶製の、道化のような装飾。そうだ、私は知っている。この意匠、この仮面。
「……は?」
つい、私が声を漏らしたその瞬間。
「……っ!?」
その影は振り返った。その顔には、すでに何もなかった。仮面も化粧も消え失せていた。
――そこには、スウェット姿のスッピンの女。
「……ぁ、……えっ……」
明らかに、目が泳いだ。肩が跳ね、両腕が思わず胸元を押さえる。バッグの口が開き、詰めかけられたパッドや化粧品が見えかけて――彼女はあわててバッグを抱きかかえた。
「な……な、なぜ、ここに……!」
声は、掠れていた。高くて、怯えたようなトーン。
私は思わず口を開いた。
「……あの、だれ?」
我ながら間の抜けた声と問いだ。こちらも完全に素だった。……余裕を失っていたのだ。
彼女がビクッとする。そして、一瞬で顔色が青くなるのが、遠目にもわかった。
「せ、先生……ご、ご覧になったのは……いまのは……あの……あれは……っ」
仮面に手を伸ばすが、もう遅い。それを被ったところで、何もなかったことにはならない。
私は、無意識に言葉を探した。だが、それより先に彼女が叫ぶ。
「見たの!? その……その、パッド……じゃなくて! その……着替えの、途中っ!!」
「……ああ、うむ。見たというか……うっかりだ。事故だ。偶然だ。不可抗力だ。私は悪くない」
「見られたあああぁ!!!」
耳をつんざく声が、公園の闇に響き渡った。
そして――彼女は、仮面を拾うと、その場でうずくまり、スウェットのフードを目深に被ったまま、肩を震わせて小声で呟いた。
「……もう無理……もう生きていけない……」
私は、さすがに困惑した。いま目の前にいるのが、あの芝居口調の女と“同一人物”だという確信は……まだ薄い。だが、状況証拠があまりにも揃っている。
……どうしたものか。
この、可哀想な女優崩れを前にして、私はただ、白衣の裾をそっと撫でながら、静かに咳払いをひとつした。
――第58幕へ……




