第56幕: 『幕は、すでに』
「本来なら、こちらから伺うつもりだったのだがね。ヴラーナ支配人。いや、座長……かな?」
こちらの声に応じるように、静かに一礼する影。その身を包むマントの裾が、風もない空間でふわりと揺れた。
「どちらでも……。ですが、願わくば、……エモシュカとお呼びいただければ」
「劇場のオーナーが、重要な情報を持っているとは思えなかったものでね。すっかり後回しにしてしまった。悪かったかな?」
エモシュカは、顔の半分を仮面に隠したまま、こちらを向く。目元だけが、わずかに笑んだように見えた。
「ふふ……。重要かどうかは、見る人の価値観次第にございまする。わたくしはただ、“役を演じているだけ”でございますれば」
言いながら、彼女はマントの裾を翻すように、片手を差し出した。動作と連動して、袖のフリルがひらりと舞う。その手の甲には、赤いインクのような模様。よく見れば、それは舞台衣装の文様にも似た螺旋だった。
「改めて、よろしくお願い致します。主役の座はお譲りしますが……名脇役くらいは、頂いても?」
「……ふむ、さては厄介な女だな?」
思わず呟いてしまったが、彼女は淀みなく答えた。
「ええ、おそらくは。……けれどもう、幕は上がっております。今回の台本に“演者交代”はない。幕が下りるまでは、配役の入れ替えはございません」
――エモシュカ・ヴラーナ。
その目には、夜の闇とは違う静けさがあった。
彼女は両手を胸の前で組み、芝居がかった姿勢のまま微笑んだ。
「さて、死地よりのご帰還、おめでとうございます。このたびは快気祝いの品をお持ちしました」
「……快気祝い、だと?」
「ええ。もちろん先生に最も価値あるお品でございます。……この街の真実に、ひとつ近づくための情報」
彼女は、少し顎を傾けて笑う。その笑みはやはり芝居めいている。
「わたしたち“エモツェ”は……。あの子の“心の断片”にございます」
「……だろうな」
「おや、もうご存知で」
「"エモツェ"、つまり感情を名にしているのは、そういう意味だろう?パムェトナは記憶、ラスカヴァは優しさ。そして、エモシュカ……確か、意味は衝動もしくは情熱だったかな?」
私がそう言うと、彼女は軽く息をついた。仮面の下で、ほんの少しだけ声が柔らかくなる。
「まさしくその通りにございます。我らエモツェは、あの少女の“感情”を、それぞれ、ひとつずつ担って形を成しているのでございますれば。……されど、ルースカ。彼女だけは、少々趣を異にしておりまして」
「……ふむ」
「ルースカが担うのは……“成長”や、“拡張”といったものにございます。それはつまり、“思考”の領分ではなく“無意識”。“本能が動かす力”に近いのでございますれば。ゆえに彼女は……あの子の意識とは、繋がることができないのです」
「なるほど。まるで脳幹と皮質の分離のようだな」
「意味はわかりませぬが……たぶん、そんな感じにございまする」
――わたしは、"やべっ"っと思った。
こいつ、アドリブ効かない上に"学が浅い"。"脳幹"すら知らない。“脳幹と皮質”と言われただけで、明らかにキャラブレした。
おそらく、知らない言葉が飛んできたときの対応スクリプトが実装されていないのだ。
――ここからの会話は、更に慎重を期さねばならない。
重々しい空気。いかにも“専門用語が通じそうな雰囲気”に酔わされてはいけない。
……私は慎重に、これまでのセリフのやり取りを反芻した。そう、語尾はいかにもだが語彙は貧困。つまり、この女の言語体系は見た目重視のプレゼン型なのだ。
私は腕を組み、夜空を仰いだ。ここから先は、“知的そうに見えるが、誰でもわかる言葉”で構成された会話が望ましい。うっかり頻出単語以外を投下すれば、大事故に繋がりかねない。――つまりこれは、知性のバリアフリー運用フェーズ。
だが、私は“それっぽく見せる技術"には異様なほど長けている。
まずは、語彙選びだ。“神経ネットワークの階層的分化”などと言ってしまえば、相手は沈黙するだろう。
傾聴ではない。“フリーズ”だ。
よってここは、"やさしい"と"賢そう"の黄金比を狙う。
"本能と理性の並列処理"……いや、まだキツイな。
"摩天楼のように分かれた心"もしくは、"内から外へと手を伸ばす本能"……。――よし、このあたりが限界か。
そして、合間にはそれっぽい間と頷き。重要なのは、けっして会話の中身などではない。“それっぽい雰囲気”。そして、“自信ありげな余韻”である。
私はわざとらしく腕を組み、"いかにも思索中"の雰囲気を出す。エモシュカはひとつくるりと回り、その場にステップを刻むように足を揃える。
「さてもさても、エモツェの秘密は、もうご存知だったとは。このままでは、私の面目が立ちませぬ。では、更なる手土産を……」
それは、まるで舞台袖からスポットに踏み出すような所作だった。
「エモツェには……、“6人目”がおりまする」
「……ほう」
エモシュカの声が、僅かに芝居のテンポを外れる。
「6人目のエモツェが司るのは“この街の外に出たい”という気持ち。それは、エモツェの誰も知らない感情。でも、確かに“あの子の中”にあるものです」
「……つまり、それを象徴する存在が、もう一人いると」
「はい。きっと、そのエモツェが“鍵”になる」
彼女は視線を落とし、舞台の幕が降りる直前のような沈黙を置いた。
「残念ながら、私は“その6人目”が誰なのかを、存じませぬ。それは、私にも届かない心の奥底にございますれば」
「……なるほど、6人目……か。それなら、どこにいるか、だいたい目星は付くよ」
エモシュカはしばらく私を見つめ、やがて、舞台の灯が落ちるようにゆっくりと微笑んだ。
「……さすが、先生。では、その“答え合わせ”を楽しみにしておりまする」
そう言って、再び彼女は深く一礼する。その所作は、やはりカーテンコールのように美しかった。
そして、仮面の奥の片目だけでこちらを見据えたまま、彼女はフワリと後ろ跳びに、闇の奥へと音もなく消えた。
風が吹いた。マントの名残だけが、芝居の終わりを告げる拍手のように、夜気に散った。
――第57幕へ……




