第55景:『幕が上がるとき』
――足音が、響いてきた。
石畳を踏み鳴らすようにして、それは、一定の間隔で近づいてくる。
私は、仰いでいた首をゆっくりと戻し、病院の扉を背に、夜の公園へと向き直った。
夜の街は、相変わらずの静寂。潮騒すら、どこか遠くで身構えている。まるで、舞台袖で出番を待つ音のようだ。その足音は、公園の闇から落ちてくる。沈黙の帳の上に、ぽつ、ぽつ、と、音だけが染みていくようなリズム。
左右のバランス、靴底の擦れ、重心の含ませ方。明らかに、演出を意図した動き。“観客の存在”を前提とした歩き方。
「……夜更けにしては、やけに堂々たる足音だな。ずいぶんと、自意識がしっかりしているようだ」
口にしてみたが、返事はない。というよりは“答えるつもりがない”という言葉を、沈黙で返したかのようだ。
足音の先の地面を、街灯が照らしている。まるで、三角形に切り取られた舞台のスポットライト。やがて、背後へと長く伸びるマントのシルエットが、闇の中に浮かび上がる。
そこに、その影が滑り込んだ。煉瓦造りの舗装路を、円形に明るく照らす灯り。その中心にぴたりと立つその影。下半身を飾るのは、青いストライプの演劇的な布地。極端に膨らんだサルエルパンツ。まるで、サーカスのクラウンだ。
首を傾けた、その顔。左側は仮面に覆われている。陶製のマスクに、金の蔦模様が絡む。目の奥は暗く、光を吸うようにこちらを見ている。
右半分は素顔。しかし、その唇に浮かぶ微笑は、いかにもわざとらしい。意味を持たせすぎず、かといって意味を欠きすぎず。“演者が作る舞台上の笑み”といった印象だ。
その左手が音もなく頭上へと掲げられる。指が滑らかに伸ばされ、その終点で、爪の先が街灯の明かりを微かに弾く。……妙に静かな動き。観客の視線を指先に集める、舞台演者の動き。
ゆるやかに肩が張られ、腕が天を差す。その姿勢の変化とともに、マントの下でふわりと膨らむ胸のシルエットが浮かび上がる。服装や顔立ちからは判別しにくいが、女であるらしい。
――ふむ。まるで、仮面劇の道化が、今まさに主役の座を奪いに来たかのような風体。
――つまりは。……不審者確定である。
私は一歩踏み出し、問いかける。
「……私になにか、用事かな?」
その人物は、ゆっくりと右手でマントの端を持ち上げる。掲げていた左手を、弧を描くように降ろして胸元に当てながら、優雅に深く一礼した。
……まるでカーテンコール。妙に"溜め"と"含み"がある。
――これは“来る”やつかもしれない。
私は、彼女の第一声に神経を集中する。
「はじめまして、先生。ようやく……ご挨拶の幕が、上がりましたね」
――来た!!
これは……来たぞ。喉の奥にこもる演技、語尾の余韻、跳ねるイントネーション。これは、“演技を演技のまま見せる”系。観客ありきのヤツだ。
……危険である。――これは……向こうが濃すぎる。
そのまま礼を解いた彼女が、帽子を取る。ジェスターハットの下から現れたのは羊の角。顔を上げた右目に、横長の瞳孔が光った。
「……なるほど。演出には手慣れているようだな。キミも、“エモツェ”か」
「ええ、そうなります。私の名は、エモシュカ・ヴラーナ。この街の劇場を預かっておりまする」
「……今、“〜る”で語尾を締めたな?」
「………………」
………ガン無視された。まさかのツッコミスルー。――これは本気で危険だ。
インスティナとは逆ベクトルでヤバい。あちらが“理性によるツッコミ不在”なら、こちらは“演出過剰によるボケの押し売り”。
しかも、私と若干キャラが被っている。まだセリフ数往復なのに、私の持ちネタが全て食われる気配がする。
――私も、こういうのは"ちょいちょいやる"。だが、あくまで“要所要所”だ。
オチに向かって助走をつける際、オーバーリアクションへと繋げるスロープとして、それは機能する。
――しかし、彼女は違う。常時、本番テンション。例えるなら、声優志望がキャラを保ったまま、コンビニで接客してくるタイプである。
『……タバコ、52番。』
『はぁ〜いっ♪ かしこまりましたっ⭐︎』
その瞬間、こちらの思考は一時停止を余儀なくされる。
私はただ、考え事をしながら自販機感覚で買い物をしたいだけなのだ。人格は捨てろ。己を機械だと思え。
“自分のテンションを保ったまま、無言で買って、無言で出る”。それが、現代における理想の買い物スタイル。"ありがとうございましたっ♪"系の喋る自販機が廃れた理由は、それである。
「………………」
エモシュカは、いまだ沈黙を続けている。
――ならば、こちらも遠慮なく思索を続けさせてもらう。
……さて。ボケかツッコミでいえば、彼女は完全にボケサイド。しかも、上段ボケ。ここでボケても、まともなツッコミは期待できまい。
ここは、クオリティを捨ててでも、私がツッコミに回らざるを得ない場面かもしれない。
――いや、あるいは。過剰×過剰で“嘘喰い”系のヤツも可能ではある。芝居テンション同士が正面衝突すれば、それはそれで成立する。
だが、これほど弄り甲斐のあるキャラ。捨ててしまうには、あまりに惜しい。
「………」
「……………………」
彼女は、まだ何も言わない。
――では、再び思索に移らせて貰う。
さて、改めて目の前の人物……ヴラーナを見つめる。
……この街は“児童文学的”な装飾をしている。風景も美しく、住人もどこかファンシー。
たが、実務面はどうだ。要人に「オレは異世界から来た」は通じない。職人は朝から晩まで働く。行政庁に書類を出せば、しっかり三日寝かされて返ってくる。
――それ系のアレ。
つまり、“クセ強キャラにもおおらか”みたいな甘さは一切ない。
いや、頭が浮かんでるイタチと、骸骨の時計守も、十分インパクトはあった。たが、あれは外見的な意味でのクセ。見た瞬間に「えぇ……うわぁ」って言葉が出るタイプ。だが、目の前のは人格そのものの“クセ”だ。
――あ、いや待て。性格的なクセで言えば、他にもいたな。
駅長室で"独身男性住みの1DKに鎮座する美少女フィギュア"みたいになってた、クール系汚部屋美女。
そして、関西弁から“銭勘定の暗部”だけ抽出した、ノーツッコミの一人称"ワイ"。
あと、テンプレ女。
――なんだ、わりと全員クセしかなかった。
前言撤回だ。この街は、濃度的に醤油を出汁で割らないタイプの人間しかいない。
「……………」
「……………………」
エモシュカは、まだ何も言わない。
――沈黙が長い。というか、長すぎる。
「…………お目通り願い、光栄でございまする」
――うぉっ!喋った!!
私は一瞬、思考が数ミリ浮いたのを感じた。どうやらこの沈黙、こちらのセリフ待ちだったらしい。
……なんか、悪いことをした気がする。
だがしかし。それにより、もう一つの危険要素が露呈した。
――こいつ、アドリブが効かない。
演出と間だけで構築された構文キャラ。書割がなければ、踏み足が浮くタイプ。つまり、“劇場型”というより、“台本型”だ。
これは、即興の会話では事故る可能性がある。
……致し方ない。――ここは一旦、“見”だ。
“観察”という名の間合いを取り、“様子見”という名の布石を打つ。
そう、我が観察眼により、この女の“完成度”を評価するのだ。
――第56景へ……




