第54景:『落ちる陽と、届く声』
――日が、落ち始めていた。
窓の外に、やわらかな橙色が滲んでいる。それは、昼と夜のあいだにだけ許された、つかの間の色。沈黙の中で、ただ空気だけが、ゆっくりと色を変えていった。
照明はまだ灯されていない。気配も音も、すべてが穏やかだった。
私はベッドに腰かけ、調査に関する事項を記したメモ帳を閉じた。ページの擦れる音が、空気の底へと沈んでいく。
そのとき――隣のベッドで、小さな影が身じろぎをした。
「……ん……」
まぶたが、光をすくうようにゆっくりと持ち上がる。
レモンイエローの虹彩に、横長の瞳孔。その瞳が眠たげに瞬き、こちらを捉えた。
――そして、次の瞬間。
「……せんせいっ!」
跳ね起きようとして、バランスを崩す。柵に腕を突き、軽くよろめいた。
私は反射的に手を伸ばし、彼女の肩をそっと支える。
「ふふ、落ち着きたまえ。私は既に回復している。心配には及ばない」
少しだけ冗談めかして言った声が、思ったより低く響いた。身体は思った以上に疲れていたのかもしれない。
「……というか、回復せざるを得なかったんだ。私には、テンプレ展開をぶち破るという重大な使命があるのでね」
「……? なんのこと?」
「いや、些細な話さ。悪い夢から目が覚めただけだよ」
少女は、まだ眠たげな目で私を見つめたまま、白衣の裾に指を添える。
「……ほんとに、無事で……よかった……」
言葉の最後は、かすれていた。私は言葉では返さず、彼女の頭にそっと手を置く。
指先が髪に沈む。微かに残る寝汗の熱が、ああ、生きているのだと告げていた。
静かに、風が吹いた。病室のカーテンがふわりと膨らみ、ゆっくりと揺れた。光と影が、壁に淡く溶けていた。
「……以前、キミに尋ねられたことがあったな」
「え……?」
「“この街から出る方法が見つかったら、どうするのか”と」
少女の目が、すこし見開かれる。そこに宿った不安は、隠せないほどに小さなもので。
「……せんせい、やっぱり……どこか、行っちゃうの?」
「ふむ……」
私は腕を組み、小さく呼吸を整える。
外の光が徐々に赤みを帯び、空の高いところにだけ、まだ薄い青が残っていた。
「帰還方法があるというなら、“再びこの街へ来る方法”も、理論上は当然あるはずだ。ポータルで接続できる技術を確立できれば理想的だな。……そうすれば……いつでも会いに来れる」
少女は、動かなかった。ただ、その瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「……ほんとに?」
「もちろんだ」
私は彼女の小さな手に、自分の手を重ねた。まだ冷たさが残るその手は、まるで泣いたあとの心のようだった。
誰かを、探しているような、そんな感触だった。
「戻ったら、最優先の研究テーマとしよう。この街と、私の世界を繋ぐ、双方向ポータルの確立。……だから、もう心配しなくていい。キミと私は、必ずまた会える」
少女の瞳が、ふるふると震えた。まばたきのたび、こぼれそうになるものを、ぎゅっと唇で堪えていた。
――でも、とうとう。
「……そゆこと言うからぁ……!」
声と一緒に、涙がひとしずく落ちた。そして、そのまま私の胸に顔をうずめた。
「……泣かせるつもりはなかったのだが……」
私は苦笑しながら、彼女の背にそっと手を添える。震えを受け止めながら、あたたかさを感じていた。
病室の照明は、まだ灯っていない。外の光だけが、ゆっくりと沈んでいく。
橙色の陽が、二人の影を重ねた。それは、静かに、床に落ちる。やがて、夜が来る。
それでも――この時だけは、確かに重なっていた。
影と影が、寄り添って。光が、落ちていくまで。
――そして、夜。眠気の波が引いた隙間。私はトイレを済ませたあと、つい、そのまま廊下の角を曲がっていた。
引き返そうと思ったが、足は止まらなかった。どこかの窓の隙間から、細く冷たい夜気が通っていた。それが、指先を引くように感じたのだ。
私は静かに歩き、建物の裏手へと向かった。そこには、関係者以外が通ることのない、小さな出入り口。周囲には人気もなく、光もない。
私は扉の取っ手に手をかけ、ためらいなく開けた。
――夜気が、肺に滑り込んだ。温度というよりも、質感の違い。
屋内の空気とは違う、湿度と重さと、どこかざらついた気配を含んだ夜の風が、白衣の裾をふわりと揺らす。
私は外に出た。
……静寂。世界が、まるごと眠っているようだった。
遠く、潮騒のような音がしていた。けれど、それもまた幻聴のように淡く、耳の奥に引っかかってはすぐに消える。
私は一歩、敷石に足を置く。靴裏が石を踏む音が、不思議なほど乾いて響いた。
――夜空を、見上げる。
そこは、ひたすらに闇。黒というより、存在しないという質感の空。
星もない。月もない。雲の輪郭さえ、どこにもなかった。ただ、ひとつの巨大な“無”が、頭上に口を開けていた。
――星が見えれば、測量ができたのだが。
ふと浮かんだ、あまりにも場違いな思考。その滑稽さに、すぐに首を振った。
「くだらん……」
ここは、我々の世界とは違うのだ。同じ夜空を共有しているはずはない。
私は静かに息を吐き、視線を落としかけた、そのときだった。
……音。足音。
最初は風の音に紛れていた。けれど確かに、小石が擦れるような。小さく、柔らかく、一定のリズムを刻む音。
それは、誰かが歩いている音だった。しかも、こちらへ。
私は反射的に、周囲の空気の流れを読もうとする。耳を澄ませても、音の主は姿を見せない。月も灯りもないこの場所で、向こうから誰かが歩いてくる。
だが、その足音には迷いがなかった。
通りがかりではない。“こちらに来る”という意思を持つ足音だ。
私は目を細め、暗闇の中に焦点を合わせた。廊下の端。塀の向こう。ただ、そこに。――誰かが、現れようとしていた。
気配は一つ。だが、異質だった。
夜の気配とは、何かが違った。それは静かで、穏やかで、それでいて妙に整っている。“演出された無音”のような空気が、その場を包んでいた。
――私は、口を閉ざしたまま、その“登場”を、待った。
――第55景へ……




