第50景:『目に映る、その顔』
――ゆっくりと、目を開けた。
ぼやけた視界が、徐々に輪郭を取り戻していく。最初に目に入ったのは、白く平坦な石膏ボードの天井。そして、その天井のすぐ下。
「……っ」
桃色の髪と、驚愕に染まった目が私を凝視していた。ラスカヴァである。彼女の顔は、瞬く間に表情を崩す。長い髪がフワリと私の胸元に触れ。涙を滲ませた顔が、そのまま後に続く。
「……よかった……ほんとに……」
声が震えていた。普段の落ち着いた物腰や、駅長らしい距離感はそこになく、ただ、素直な安堵だけがにじみ出ていた。
私は困惑していた。いや、厳密には「少々」である。多く見積もっても駅長室の惨劇を目にした困惑に対して20%だ。
とはいえ、彼女のこの態度は、意外でもある。私に好意を寄せてくれているとは言え、その言動も立ち振る舞いも、あくまで理性と距離感に裏打ちされたものだった。
だが今は少なくとも、彼女自身が感情を制御しきれていないように見えた。
私は黙っていた。
腕は動かさず、視線も外さず。彼女がこの“感情の波”を通り過ぎるまで、ただ静かに任せることにした。
……そして数秒。ラスカヴァは、ゆっくりと顔を上げた。
「……待ってて。みんなを呼んでくるから」
そう言い残すと、彼女はやや早足で部屋を出ていった。その背を見送りながら、私はようやく深く息を吐いた。
――さて、状況整理だ。
私はどこかの医療施設らしき場所にいる。天井の照明、無機質なスチール棚。最低限の設備と、私が身を預けるパイプベッド。
体の感覚も戻ってきた。記憶も順番に整理する。私はルースカと街を回り、例の“未完成の構造”を調査し、崩落に巻き込まれ……
……そして、少女を守って死んだ。そこまでは確かだ。いや、確かなはずだ。
だが今、私はここにいる。目を覚ました。臨死体験らしき記憶も、おぼろげに残っている。水色の空間と回廊。額縁に浮かぶ映像。
そして――
「……アジュール……」
名を呼ぶと同時に、左頬がヒリヒリ痛んだ……気がした。
実際には何も感じていない。痛覚も異常はない。だが、記憶の中のあの強烈な尻尾ビンタが、いまだに頬の感触を再現しようとしてくる。
……よほど怖かったのだろう。
ともあれ、私は。どうやら、生き延びたらしい。
命をかけたあの行動の結果は、2人分の生還。非常にありがたい話ではある。
だが欲を言えば。目覚めた瞬間に最初に見る顔が、ラスカヴァでなかったら、なお完璧だった。
……いや、けっして彼女で悪かったとは言わない。
彼女の、端正さと妖艶さが絶妙にミックスされた美しい顔は、目覚めの景色としては申し分ない。――だが、もっと見たかった顔があるのだ。
私はもう一度、深く息を吐いた。そして、部屋の扉の向こうの気配に、静かに耳を澄ませた。
――パタパタッ。
廊下の床を打つ、軽快な音。どこか不規則で頼りない、けれど懸命に駆けてくるそのリズム。
その小さな音が、いま廊下を曲がり、この部屋に近づいてくるのがわかる。
私の意識は、自然とその音に全てを割かれた。
……ああっ、躓いた――いや、大丈夫そうだ。私は思わず、上体を起こして扉の方を向いた。その軽い音は床を叩きながら、しかし確実に近づいてくる。
――そう、この小さな歩幅の足音の主こそ、私が最初に見たかった顔だ。
そして、勢いよく――
「せんせいーーッ!!」
扉が開いた瞬間、飛び込んできた小さな影が、勢いそのままに私の胸へと突っ込んできた。ふにゃふにゃの手でしがみつき、つぶれたぬいぐるみのような声で泣き喚くその生き物。――スヴェルカである。
「……いや、オマエかいっ!!」
私は思わず、ベッドの縁に後頭部をぶつけた。
「よかったぁ〜〜〜っ!! ほんとによかったぁ〜っ!!」
彼の顔は、まるで濡らして丸めたティッシュのように、ビショビショでクシャクシャだ。
「いや、うん。うれしいぞ。ありがとうスヴェルカ。でも違う。そうじゃない。そうではないのだよ」
そうではないのだ、スヴェルカ。オマエでもない。
いや、オマエがダメとも言わない。だがしかし今この場において、“最初に見るべき顔”という文脈では、正直惜しい。偏差値で言えば52くらいの立ち位置だ。
そして――その後ろから、小さな白い影が追いかけるように現れた。
――ああ、そうだ。キミだ。
私が、目を覚ましたときに最初に見たかったのは、まさにその顔。
ドアの隙間から、白いドレスと羊毛の袖がのぞき、少女はほんの少し、廊下に躓きかけた足を踏み直してから、私のもとへと駆け寄ってきた。
「……せんせい」
声が震えていた。泣き出す寸前の顔で、けれど必死に涙をこらえている。小さな手がベッドの縁に添えられ、私は、その羊角の付いた頭を、そっと撫でた。
「……どうやら、心配をかけたようだな。すまない」
少女の肩が、ぴくりと揺れる。そして、その震えは、今度は“安心の震え”に変わっていった。
小さな体の奥で、張りつめていた糸がほどけていく。私は、彼女の頭に手を置いたまま、もう一度ゆっくりと言った。
「私は、大丈夫だ」
それを聞いた少女は、こくんと、小さくうなずいた。
そして――遅れて、ラスカヴァが姿を見せた。その足取りには、すでに動揺の色はない。頬には、うっすらと涙の跡が残っていたが、表情は、いつもの涼やかな彼女だ。
「……みんな、落ち着いた?」
落ち着いていないのは、私の胸元でいまだにメソメソ言っているスヴェルカだけである。その状態で再び鼻水が押し寄せると、私は更なる精神的被害を被る。
「……スヴェルカ」
私はできるだけ優しく、だが拒否は明確に、そっとスヴェルカの額を押した。透明な一筋が、私のシャツと彼の鼻先を繋いだ。
「オマエの気持ちは、ありがたく受け取った。だが、鼻水だけは別だ。分けてくれるな」
「うぅ……はいぃ……」
鼻をすすりながらも、素直に後退するスヴェルカ。私は小さくため息をつき、視線を少女へ戻す。
――"あの手"のぬくもりが、そこにあった。それだけで、帰ってきた意味はあったように思えた。
「さて――」
私は、少女の髪をそっと撫でてから、顔を上げた。そして、ベッドの脇で腕を組んでいたラスカヴァへと視線を向ける。
「ラスカヴァ女史。当然ながら、私は状況を呑み込めてはいない。……なんらかの説明を頂けるとありがたい」
「……ええ、もちろん」
ラスカヴァは軽く瞬きをし、姿勢を正す。
「それは助かる。まず聞きたいのは三点だ。“ここはどこだ”、“私はどれくらい眠っていた”、そして“キミはなぜここにいる?”……まさか、付きっきりで看病していたのがキミだということはあるまい」
ラスカヴァは、淡く息を吐き、小さく肩をすくめながら指を折る。
「“ブジホ区の病院”、“三日と少し。今は四日目の早朝”、“まだ出勤前で、アナタの顔を見に来てた”。……これで良い? アナタが目を覚ましたのが、私の居る時だったのは……たまたまよ」
「……ふむ。状況が、だいぶ整理できた」
私がそう答えると、ラスカヴァはわずかに唇を吊り上げた。
「補足よ」
彼女は、指を胸元で組み直しながら、静かに言う。
「アナタをここに運んだのはルースカ。……担いでね。あったら、お礼を言うべきね」
私は思わず、眉をひそめた。
「彼女が……? 私を?」
「そう。背負って、瓦礫を越えて、たった一人でここまで」
私は、その姿を想像し――すぐに想像を中断した。体力的にも、精神的にも、あまりにも破格の行動だ。
だが、彼女ならやりかねない。
「そして、私に連絡をくれたのも彼女よ」
ラスカヴァは目を伏せ、そしてわずかに微笑む。
「“惚れた男の死に目くらい、一目見ておきなさい”って。……粋な計らいでしょ?」
「インスティナも、昨晩来てたわ。あの子らしく、静かに。いつの間にか帰ってたけど」
私は静かに息を吐いた。
「……さらに理解が深まったよ。ありがとう、ラスカヴァ駅長」
彼女はそれに何も返さず、ただ静かにこちらを見つめていた。私は、しばらくその視線を受けたあと、改めてベッドに身を沈め――そして、当然のように、次の問いが頭に浮かぶ。
――私は、どうやって生き延びた?
――第51景へ……




