第47景:『水色の回廊』
――空は、やわらかな水色だった。
雲の輪郭は溶け、地平も存在しない。ただ、全体的に“やる気のないホワイトバランス”で空間が満たされていた。
「……ここは、どこだ?」
――などと、つい口にしてしまうあたり、人類の認知構造の限界を感じる。
そう、“こういう場所”での「ここはどこだ……」は、脳が論理処理をサボって、言語野がフライング気味に出力してしまう典型例である。
例えるなら、自分で6時半に設定した目覚ましアラームを聞きながら、無意識に「うーん……今……何時……?」と呟いてしまうやつ。あるいは、女子高生の「わかる〜(わかってない)」だけの自動応答で会話が成立する現象――それ系の、アレ。
つまりこれは、“惰性の自己返送機能”である。
さて。結論から言えば、これは終末期せん妄だ。
脳への酸素供給が低下することで、視覚野・側頭葉・海馬などが誤作動を起こし、幻覚・錯視・回想などが意識と混線を起こす。俗にいう“臨死体験”とやらの正体は、だいたいこれだ。
神でも天使でもなく、神経電位の打ち上げ花火大会である。
だが、この演出はなかなかだ。
たとえば、空の“水色”。これが地獄の業火だったら、『炎が赤いのは、酸素過多ゆえの燃焼反応であり――』とか言いながら、せん妄内の世界で、火災原因解明に乗り出す羽目になっていた。
そう考えれば、この“水色”は大変気が利いている。
――ありがとう、私の側頭葉。めずらしくファインプレーだ。
進む理由はないが、立ち止まっていても間が持たないので、歩く。やがて、空間の中に一本の“道”が出現する。道、といっても舗装もなければ勾配もない。ただ、“進む”という動作に対して、“たぶんこんなかんじ”と脳が出力した適当なレーンのようなものだ。
そして、その両脇。空間に沿って並ぶ、四角い枠。――これは……額縁……か?まるで、美術館の回廊。とりあえず、いちばん近くの額を覗き込んでみる。
そこには、ついさっきの出来事――崩れ落ちる構造物の下で、私は少女をルースカへと放っていた。映像は音もなく、数秒だけのループ。まるで、YouTubeのショート動画。
――ショート動画、嫌いではない。
ネコちゃん動画から始まり、笑える赤ちゃん、職人の神業、料理の一手間工程。だが、手がすべって、うっかりスワイプしてしまうと地獄である。
「ネコのモフモフ」から、「元ホストが語る、刺された女のヤバいメンヘラ事件簿」に飛ばされる。
――怖すぎる。
せっかく社会に疲れた心を癒していたのに、なぜ垂直に社会の闇を下らねばならんのか。あれこそ、現代のデジタル転落体験である。
ただし、目の前の額縁に浮かんでいたのは横画面。そして、そこに映るのは、我が身を挺してルースカに少女を託し、瓦礫に沈む私。という超感動的シーン。間違いなく、シリーズ屈指のクライマックスである。
――だが、画角がおかしい。というか、斜め上からの三人称視点。
このカメラワークは、悪趣味演出だ。できれば、ルースカあたりの視点で『少女を救えたことを確信し、カッコよく余韻に浸る私』にして欲しかった。でなければ、せめて一人称視点がよかった。
これでは、私が画面端で巻き込まれてるだけ。エフェクトとかBGMとか付けろとまでは言わないが、さすがに情緒が足りない。
――ふむ。これは、いわゆる“走馬燈”と言われる現象。正確には、脳内記憶再構成スパイク。
視覚皮質と側頭葉の過活動、さらにデフォルトモードネットワークの同期発火により、記憶の映像が“自己上映”される。要するに、脳が「人生まとめVTR」を勝手に作って流してくる現象である。
問題は、その編集担当が“表層意識”ではない点だ。脳内NHKが勝手に編成した感動ドキュメンタリー特番に他ならない。
例えるなら、クラスの文化祭ムービーを、普段一言も喋らない図書委員に任せたようなもの。映像演出の完成度は高い。Filmoraを見事に使いこなしている。しかし、誰も求めてない"校長先生の訓示"が長々と挿入され、締めがアルバムの集合写真。
“ここじゃない感”がすごい。
まあつまりは、そうやって出来上がった映像が今――この回廊に並ぶ額縁である。
……まあ、せん妄に文句を言ったところで、反映されるわけでもない。
私はため息をつきつつ、次の額縁へと視線を送った――
――第48景へ…….




